三年と幾月日とくらいに
「手塚。明日の部活は休むけど報告には立ち寄るから」
着替えの最中に悪いかとは思ったが、ロッカーの前で手塚に声をかけた。
言葉少なに告げた内容は正しく部長に伝わったようだ。
「ああ、分かった。もうそんな季節か」
「あっれー乾先輩、明日サボりっすか。ていうかなんすかその大荷物」
横手から桃城が軽い調子で会話に参加する。その視線は乾の足元に鎮座している巨大なボストンバックにあった。どこか嬉しそうな様子で乾は後輩に応じる。
「データ収集だよ。…今年こそはやっと使えそうだからね。それじゃ、お疲れ」
部室を出ると辺りは夕闇に包まれている。夜の帳が降りる前の一瞬、夕方と夜の境目はいつ見てもはかなく美しいものだと思う。どうも自分がそういうロマンチックな類のことを口にするのは周囲の反応が芳しくないので、いつしか心の中で思うだけになったが。
そう、気付けば乾は三年生になっていた。今年、青学テニス部においてかつてない、これ以上は考えられないくらいの面子が揃った今、年に一度、毎年続けたこの習慣も無駄ではなかったということだ。
気付けば空には一番星が瞬いている。明日は気持ちの良い青空であることは間違いない。
乾はそれを自分の幸運のように嬉しく思って空を仰いだ。
雲ひとつない晴天の下、柳蓮二は一枚の紙片を手に、果てしない思考を巡らせていた。
神奈川随一のマンモス校である立海の体育祭ともなれば、もはや競技をこなすだけに止まらず校内すべてがお祭り騒ぎだ。流石に露店までは出さないが着ぐるみや奇抜なコスチューム等、文化祭とも見紛うような浮き足立った仮装をした輩がトラック内外に関わらずうようよいる。
勿論、競技自体も勝負事に燃える体育会系を中心に校庭は異様な熱気に包まれていた。
蓮二は今まさにその熱狂の最中にいた。舞い散る紙吹雪、飛び交う怒声と声援。
それらはこの瞬間だけは、トラック内で立ち尽くす自分に向けられたものであったが、今自分の意識は全て一片の紙切れにすべてもって行かれていて気になどしていられなかった。
――……こうした競技には主観よりも第三者からの客観が物をいう。たとえ自分がそうだと思っていたとしても他人からそれと認識されていなければ意味が無いだろう。その奥の深さがまたこの競技の醍醐味とも言える。
そうなると、自他共に認めるという点での適任者といえば真田だろうが、残念ながら奴もこの競技にエントリーし続く走者として出番を待っている。これでは引っ張り出すことは不可能だ。
次に思い当たるのはテニス部の面々だが……赤也では説得力が皆無。よく図書館で共に自習をしている柳生あたりは快く応じてくれそうなものだが、その気軽さが仁王の神経を逆撫でする確立96%。そもそも仁王などは違うクラス、つまり敵チームだという時点で選択肢に入っていない。味方の時はともかく、この状況では俺の驚く顔を見たいというだけの理由でわざと転び大げさに、かつ部活に響かない軽度の捻挫をしてみせるくらいのことはやらかしてくれそうだ。
あの辺りはどちらを引っ張り出しても後が面倒。一度揉められるとダブルスの試合内容に大いに影響するのでそれは避けたい……。
総合的に判断し丸井とジャッカルにあたりを付けて、学年毎にトラックをぐるりと囲むようにして並んでいる座席に視線を巡らせた。思考の時間は然程長くなかったはずだが、徐々に後の走者が追いついてきた。
だが賑やかな歓声の中、そんな肝心な時に派手な赤髪とスキンヘッドは揃って見つからない。
3年A組のクラスが固まっている一角にいる柳生と目が合うがあえて黙殺する。そらした視線の先……柳生の背後に居た着ぐるみが蓮二の視界に入った。
年に数回しか使用しないような、倉庫で眠っていたものでも引っ張り出してきたのか。薄汚れたライオンは手にしたビデオカメラを静かにこちらへ向けている。昨年も一昨年も全く同じ、ビデオカメラを持ったライオンがいたことを覚えていた。三年前から変わらず左耳が千切れかけている。物持ちがいいことだ。
蓮二はそっと目を見開く。
……客観視ということに関しては、もはや丸井やジャッカルを選ばざるを得ない時点でとうにその説得力に欠いている。
ならばいっそ、これも有りか。
蓮二は真っ直ぐにA組のブロックに駆け寄ると「柳君」と声をかけてきた柳生を一度通り過ぎ、薄汚れた手からビデオカメラを奪った。
「すまないがこれを頼む」
すばやくカメラを柳生に放ると、空いたライオンの手を引いてトラック内に戻った。
「……っ!!」
口などどこにも無いのに、何か言いたげに見えるライオンに一度だけ振り返る。
「今年で最後なんだ、全力で走れよ。足手まといで負けるなど、俺が許してもお前が許さないだろう?」
蓮二の連れて戻った人影に周囲はどよめきを隠せなかったが、ゴールに向かってトラックを駆け出したライオンのあまりの機敏さに観客は大いに歓喜して手を叩いた。
一位でゴールテープを切った蓮二たちと借り物のメモを見比べる審判の教師は大いに戸惑った。
「……困るだろう。せめて人間にしてもらわないと」
「申し訳ない。しかし猛獣の扱いには定評があるんです、先生」
「……」
結局、競技を盛り上げた功績として多少の拭いきれなさは目を瞑ってもらった。
「付き合わせて悪かったな」
トラック外の片隅で息を切らせている様子のライオンに、蓮二はビデオカメラを差し出す。それを届けてくれた柳生はカメラのほかにも、どこからか安全ピンを調達してきていた。
「教室に戻ればソーイングセットがあるのですが」
申し訳なさそうに言ってライオンの耳をピンで留めるとその場を離れ次の競技へ向かったようだ。どうでもいいことだが奴の気遣いは紳士的な振る舞いというより既に良妻賢母のそれだ。若干逸れてきている。
「おかげで勝たせてもらった。それに免じてテープを抜くような真似はしないでおこう。……またな。今年こそ大会で」
その場に立ち尽くすライオンを置いて、振り返ることはせず蓮二はクラスの一角に戻る。自分の座席には白い頭が居座っていた。
「まさかお前さんがあんな面白いことする男じゃったとはのー。笑わせてもらったわ」
「他に適任が居なかっただけだ」
「へえ。メモには一体何て書いてあったんじゃ」
「見たいか」
ひらりと紙片を渡してやると、一瞥した仁王は急にかわいそうなものを見る目でこちらを仰ぐ。
「参謀よ……友達居らんのなら柳生なり俺なりいくらでも付きおうてやったんに」
「嘘を吐け。だが、少なくともお前よりもあれは適任さ。……あくまでも俺の主観、だがな」
「……あーあ。病院に居る幸村にも見せてやりたかったのう。珍獣と仲良く走る参謀の姿をよ」
いつになくご機嫌な様子であの小汚いライオンを『親友』とのたまう参謀の神経に底の知れなさを感じて、仁王はそれ以上何も言わなかった。
着替えの最中に悪いかとは思ったが、ロッカーの前で手塚に声をかけた。
言葉少なに告げた内容は正しく部長に伝わったようだ。
「ああ、分かった。もうそんな季節か」
「あっれー乾先輩、明日サボりっすか。ていうかなんすかその大荷物」
横手から桃城が軽い調子で会話に参加する。その視線は乾の足元に鎮座している巨大なボストンバックにあった。どこか嬉しそうな様子で乾は後輩に応じる。
「データ収集だよ。…今年こそはやっと使えそうだからね。それじゃ、お疲れ」
部室を出ると辺りは夕闇に包まれている。夜の帳が降りる前の一瞬、夕方と夜の境目はいつ見てもはかなく美しいものだと思う。どうも自分がそういうロマンチックな類のことを口にするのは周囲の反応が芳しくないので、いつしか心の中で思うだけになったが。
そう、気付けば乾は三年生になっていた。今年、青学テニス部においてかつてない、これ以上は考えられないくらいの面子が揃った今、年に一度、毎年続けたこの習慣も無駄ではなかったということだ。
気付けば空には一番星が瞬いている。明日は気持ちの良い青空であることは間違いない。
乾はそれを自分の幸運のように嬉しく思って空を仰いだ。
雲ひとつない晴天の下、柳蓮二は一枚の紙片を手に、果てしない思考を巡らせていた。
神奈川随一のマンモス校である立海の体育祭ともなれば、もはや競技をこなすだけに止まらず校内すべてがお祭り騒ぎだ。流石に露店までは出さないが着ぐるみや奇抜なコスチューム等、文化祭とも見紛うような浮き足立った仮装をした輩がトラック内外に関わらずうようよいる。
勿論、競技自体も勝負事に燃える体育会系を中心に校庭は異様な熱気に包まれていた。
蓮二は今まさにその熱狂の最中にいた。舞い散る紙吹雪、飛び交う怒声と声援。
それらはこの瞬間だけは、トラック内で立ち尽くす自分に向けられたものであったが、今自分の意識は全て一片の紙切れにすべてもって行かれていて気になどしていられなかった。
――……こうした競技には主観よりも第三者からの客観が物をいう。たとえ自分がそうだと思っていたとしても他人からそれと認識されていなければ意味が無いだろう。その奥の深さがまたこの競技の醍醐味とも言える。
そうなると、自他共に認めるという点での適任者といえば真田だろうが、残念ながら奴もこの競技にエントリーし続く走者として出番を待っている。これでは引っ張り出すことは不可能だ。
次に思い当たるのはテニス部の面々だが……赤也では説得力が皆無。よく図書館で共に自習をしている柳生あたりは快く応じてくれそうなものだが、その気軽さが仁王の神経を逆撫でする確立96%。そもそも仁王などは違うクラス、つまり敵チームだという時点で選択肢に入っていない。味方の時はともかく、この状況では俺の驚く顔を見たいというだけの理由でわざと転び大げさに、かつ部活に響かない軽度の捻挫をしてみせるくらいのことはやらかしてくれそうだ。
あの辺りはどちらを引っ張り出しても後が面倒。一度揉められるとダブルスの試合内容に大いに影響するのでそれは避けたい……。
総合的に判断し丸井とジャッカルにあたりを付けて、学年毎にトラックをぐるりと囲むようにして並んでいる座席に視線を巡らせた。思考の時間は然程長くなかったはずだが、徐々に後の走者が追いついてきた。
だが賑やかな歓声の中、そんな肝心な時に派手な赤髪とスキンヘッドは揃って見つからない。
3年A組のクラスが固まっている一角にいる柳生と目が合うがあえて黙殺する。そらした視線の先……柳生の背後に居た着ぐるみが蓮二の視界に入った。
年に数回しか使用しないような、倉庫で眠っていたものでも引っ張り出してきたのか。薄汚れたライオンは手にしたビデオカメラを静かにこちらへ向けている。昨年も一昨年も全く同じ、ビデオカメラを持ったライオンがいたことを覚えていた。三年前から変わらず左耳が千切れかけている。物持ちがいいことだ。
蓮二はそっと目を見開く。
……客観視ということに関しては、もはや丸井やジャッカルを選ばざるを得ない時点でとうにその説得力に欠いている。
ならばいっそ、これも有りか。
蓮二は真っ直ぐにA組のブロックに駆け寄ると「柳君」と声をかけてきた柳生を一度通り過ぎ、薄汚れた手からビデオカメラを奪った。
「すまないがこれを頼む」
すばやくカメラを柳生に放ると、空いたライオンの手を引いてトラック内に戻った。
「……っ!!」
口などどこにも無いのに、何か言いたげに見えるライオンに一度だけ振り返る。
「今年で最後なんだ、全力で走れよ。足手まといで負けるなど、俺が許してもお前が許さないだろう?」
蓮二の連れて戻った人影に周囲はどよめきを隠せなかったが、ゴールに向かってトラックを駆け出したライオンのあまりの機敏さに観客は大いに歓喜して手を叩いた。
一位でゴールテープを切った蓮二たちと借り物のメモを見比べる審判の教師は大いに戸惑った。
「……困るだろう。せめて人間にしてもらわないと」
「申し訳ない。しかし猛獣の扱いには定評があるんです、先生」
「……」
結局、競技を盛り上げた功績として多少の拭いきれなさは目を瞑ってもらった。
「付き合わせて悪かったな」
トラック外の片隅で息を切らせている様子のライオンに、蓮二はビデオカメラを差し出す。それを届けてくれた柳生はカメラのほかにも、どこからか安全ピンを調達してきていた。
「教室に戻ればソーイングセットがあるのですが」
申し訳なさそうに言ってライオンの耳をピンで留めるとその場を離れ次の競技へ向かったようだ。どうでもいいことだが奴の気遣いは紳士的な振る舞いというより既に良妻賢母のそれだ。若干逸れてきている。
「おかげで勝たせてもらった。それに免じてテープを抜くような真似はしないでおこう。……またな。今年こそ大会で」
その場に立ち尽くすライオンを置いて、振り返ることはせず蓮二はクラスの一角に戻る。自分の座席には白い頭が居座っていた。
「まさかお前さんがあんな面白いことする男じゃったとはのー。笑わせてもらったわ」
「他に適任が居なかっただけだ」
「へえ。メモには一体何て書いてあったんじゃ」
「見たいか」
ひらりと紙片を渡してやると、一瞥した仁王は急にかわいそうなものを見る目でこちらを仰ぐ。
「参謀よ……友達居らんのなら柳生なり俺なりいくらでも付きおうてやったんに」
「嘘を吐け。だが、少なくともお前よりもあれは適任さ。……あくまでも俺の主観、だがな」
「……あーあ。病院に居る幸村にも見せてやりたかったのう。珍獣と仲良く走る参謀の姿をよ」
いつになくご機嫌な様子であの小汚いライオンを『親友』とのたまう参謀の神経に底の知れなさを感じて、仁王はそれ以上何も言わなかった。
作品名:三年と幾月日とくらいに 作家名:みぎり