Re : 私信
日々の流れは恐ろしいほど緩やかだった。
生ぬるい風の音、ゆるりと弧を描くカーテンの波、部屋の中で時を刻み続ける秒針の音、窓から見える雲の動き、空の色の移り変わり。そのすべてが静かに世界を構成して動き続けている。
その中にいるナイレン・フェドロックという存在は、一体世界にどれほどの影響力を持つのか。広すぎる執務室の端っこ、ソファーに寝そべりながら、その静寂の中でナイレンはぼんやり思考する。
生きていてほしい命を守れずとも、世界は終わらない。世界には影響しない。生き残った自分の命に感謝することもなく、のうのうと生きていても、別の街では魔物によって市民が死んだり、騎士が死ぬ。それはナイレンの耳にはただの情報でしか入ってこずに、そうして一日が去ってゆく。世界には、人ひとりの死はまったく影響しない。静かに朝は訪れ、のんびりと昼は空を渡り、夜は急ぐかのように眠る。その繰り返し。大切な人たちを亡くしても、そのサイクルを世界は忘れない。忘れたがっているのは、そのちっぽけな人間だけなのかもしれないが、ナイレンにはそれが無性に腹立たしくて仕方がない頃があった。
そうだ、昔の話だ。
だけど今、その気持ちを割り切れているのかどうかと訊ねられれば、きっとはぐらかしてしまう。ただ若かったのかもな、と答えてもその答えは自分の中で燻ってしまうのだろうと考えて、口元に苦笑を浮かべて瞼を閉じた。
「どうしようもないな」
まだ過去の自分へと答えるべき言葉はない。そんな自分に呆れて、ぼそりと呟いた。広すぎる執務室にその呟きを拾ってくれる人間は居らず、そのまま燻っている気持ちと同じように行き場をなくしてゆくはずだった、のだけど。
とすっ、という音と共に仰向けに寝そべっていたナイレンの腹の上に小さな重みが加わり、低く唸るような声を向けられて、驚いて目を開けた。
そこには犬舎にいるはずのランバートがいて、ナイレンの腹の上には生まれて間もないランバートの子どもがいた。
親子そっくりな瞳に見つめられながら、ナイレンはしばらくの間呆けて、なんでお前ここにいるんだ、と苦笑しながらランバートの頭を撫でた。ランバートはおとなしくその手を受け入れ、ナイレンの腹の上にいる自分の子どもを鼻で突付いた。子犬はよろよろしながら、きゅーん、と鳴く。それを見ながら、ああそっか、とナイレンは少しだけ笑った。
「名前、付けなきゃなあ」
それに腹の上にのろりとナイレンを見た子犬が、意思のある声で、高く鳴いた。
Re:私信
「ラピード」
っていう名前にしたからよろしく頼むわ、と告げると、ユルギス達は一斉に口を揃えてその名前を確認するように言う。
もともとなかったものに名前を付けるという行為は、最初はとてもじゃないけれど、馴染まない。名前がない頃から親しみを込めて接しているとその違和感は更に拭えないものになる。しかし、不思議なことに人間は新しい環境に放り込まれてもだいたい三日で慣れる生き物らしく、きっとこの名前も三日も口にしていれば馴染んでゆくのではないかと、根拠もなくナイレンはそう思いながらラピードの頭を撫でた。
小さいながらも一丁前に強い意志の目をしながら、きゃふ、と鳴く。その様がやけに可笑しくてナイレンは口元を緩めた。そして足元に大人しく座っているランバートとラピードを見比べて、親子だなあ、とも思う。きっと性格もよく似たものになるのだろう。
そんな小さくころころしたラピードの側へと、双子であるヒスカとシャスティルが、ラピード、と名前を口にしながら近寄ってきた。小さくて可愛い対象はやはり年頃の女の子にはたいへん気になるものらしく、ラピードも嬉しいのか、先ほどから尻尾を振ってばかりだ。
そんなラピードにヒスカとシャスティルが額をぐりぐりと押し付けて、花が揺れるように笑う。かわいい、と口にしながら順番ずつ頭を撫でて、元気に育ってね、と声をかける。分かっているのかそうでないのかは定かではないが、ラピードはランバートと同じように意思のある声でまた、きゃふ、と鳴いた。どうやら親の躾はもう既に始まっているし、行き届いているようだった。
ナイレンはそれに感心しながら、楽しそうにはしゃぐシャスティルとヒスカへと視線を向けて、そういえば、といつだったか帝国騎士団から来た通知の内容を思い出し、告げた。近々、こちらに派遣された騎士が二人来て、その二人の面倒を頼みたいことを。
「ええ!? 相変わらずのことながら突然すぎますよ、隊長」
「いやな、その通知は結構早めには届いてはいたんだがなぁ」
「だったらもっと早く言ってくださいよ! こっちにだって都合とか、いろいろ、」
「それに、お前たちなら上手くやれるだろう。派遣されてくる二人とは歳は近いようだしな」
歳が近くってもそれとこれとは別です、とヒスカはぎゃあぎゃあ言いながらラピードの尻尾へと腕を伸ばし、尻尾先を人差し指でぺしぺし叩くように触った。ラピードはそのヒスカの指の動きを興味津々に目で追いながら、無意識なのか、尻尾を忙しなく動かす。それにシャスティルが苦笑しながら、ヒスカを窘めた。
ナイレンはそのやりとりを穏やかに笑みを浮かべながら眺め、大丈夫そうだと判断して「じゃあまかせたぞー」とラピードを抱えてシャスティルに渡す。ラピードは不思議そうにナイレンを目で追うので、ナイレンはラピードに向かってニッと歯を見せて笑った。すると表情は変わらないものの尻尾は嬉しそうに振るので、その頭を撫でた後、背中を向けて手を振った。
ナイレンの背中に明らかに納得していないヒスカの「ちょっと隊長!」という声が飛んでくる。だけど振り返りはしない。正確に言えば、振り返ることなどできなかった。
未来の力を育てるには、同じ未来を抱えて見据えている力が担って進んでいけばいいと思っていた。協力して、補って、支えあう。可能性という力が未来になる。
しかしそれを口にして自分は違うのかと問われた時に答える言葉が、なかったというのも、あった。
そう、なかったのだ。
***
子どもというのはあっという間に成長してしまうものだ。
それはナイレン自身の娘もそうだったし、同僚の子どもでさえそう感じたことがある。瞬く間にたくさんのことを覚え、吸収していく様を見守るのはとても感慨深く、自分も同じだったのだろうかと思うと不思議な感覚だった。
そんな感覚をまた覚えるとは、と今は犬舎にいるであろうラピードを思いながら、ナイレンはこの間よりかは随分としっかりしてきたラピードの勇ましい表情や輪郭を頭の中で描いた。
ラピードの父親であるランバートとは長い付き合いになるが、ここまで父子共々そっくりだとまるでランバートが子犬に戻ったみたいだと、ナイレンは小さく笑い、そうして辿り着いた犬舎の光景に、思わず足を止めた。
「こ、こら。ちょ、ちょっとやめってってば! くそ、この、どりゃああぁ!」
聞いたことのない高い子ども声と、ラピードの子犬ながら勇ましい声が飛び交って、その内、ばさりとランバートたちの寝床となっている場所のふかふかな藁が宙を舞って、元通りになる。