賢い鳥2
色々あった。練習試合は何度か苦しい場面があって、誰にもこぼすつもりはないが、瑛がいればと思ったシーンもある。攻撃を瑛に頼りすぎていたことを痛感したので対策も考えた。瑛の意見も聞いてみたかった。
斜め上を眺めて思い出すような間の後、享は首を振った。
「特に何もないよ。試合も勝った」
「なんだ。もっと俺のありがたみを感じてる頃かと思ってたのにつまんねーな」
グラウンドの前でチームメイトと合流した。みんな開口一番に日本代表合宿の話を聞きたがった。でも、ファミレスでしゃべりつくして満足したのか、瑛はもう饒舌ではなくなっていた。
中等部から高等部への進学など進級のようなものだ。
広いとはいえ同じ敷地の中に建つ校舎同士。そこに通うメンバーも入れ替わりはほとんどない。
学生寮だってそうだ。それなりに社交的に過ごしていれば一人二人は顔見知りの先輩や同輩がいて、食堂の使い方から共同洗濯機の使い方まで面倒みてくれる。
高等部進学と同時に入寮した享も不安はなかった。一人部屋に入ることが出来たし同じ新入生でサッカー部の真屋信之助は小ざっぱりしていて付き合いやすい性格の男だった。
寮生には運動部員が多い。自宅通学できない距離ではなくても朝練参加のために寮を選ぶ生徒も少なくない。
「飛鳥もそのクチ?」
そのクチ。つまり、部活のために入寮した真屋が朝食の焼き鮭を齧りながら享を振り返った。寮の食堂には逞しい運動部員がひしめき合って競うように白米の茶碗を空けていく。
「まあ、そんなところ、かな」
「ふーん。横浜だっけ?」
「うん。中等部の頃は部活はやってなかったんだ」
「横浜のジュニアいたんだろ?直接やったことねえけど試合見たことあるよ。飛鳥とさ、アイツ、FWの…タカ……」
「鷹匠?」
「そうそう、鷹匠が目立って上手かったんだよな」
「タカは…すごい奴だよ。チームメイトから見ても」
視線が手元の味噌汁に落ちる。無意識に油揚げとワカメの浮かんだそれを箸でかき混ぜた。まだ数週間の付き合いでも享には似合わないと思う仕草に真屋は頭を掻いた。
「いや、飛鳥もすげーよ。俺の見た試合じゃ完全に攻撃封じてたし」
「別にタカが褒められて拗ねたりしてないよ」
「お世辞じゃねえって。監督からも昨日一人で呼ばれてたじゃん」
「ああ、あれは……」
言いづらいことを何と説明しようか考えあぐねいて言葉を詰まらせた時だった。
「よお。飛鳥」
寮生のサッカー部の二年生だった。その中でもGKとDFが三人。それから少し後ろにFWの先輩がいた。顔は作ったように友好的だが、朝っぱらから集団で一人の新入生を取り囲む状況が不穏だ。
向かいの席に座りながらも完全に蚊帳の外にされている真屋が変な顔をした。
「それさっさと食って、登校前に俺の部屋に来いよ」
「どうしたんスか?」
口を挟んでようやく真屋が視界に入ったようだが、
「ちょっとな」
一言でまた閉めだされた。
真後ろに立たれた享はやりづらそうに体をひねっている。一度申し訳なさそうに真屋を見て、頷いた。
要件は分かっているのだ。真屋はますます顔をしかめた。
「わかりました。なるべく急いで伺います」
「時間かかるかもしんねーから早くな」
二年生が食堂を出ていってから真屋が身を乗り出した。
「おい、大丈夫かよ」
「問題になるようなことはされないだろ」
大丈夫。そう言ったのに、真屋はついてきた。二人で部屋に現れると、案の定、いい顔はされなかった。それでも享が追い返そうとしても真屋が譲らなかった。
話というのは察しがついている。
「監督から飛鳥中心にした守備体制を作るって言われた。お前、知ってるよな?」
一年生の真正面で椅子に座るのは部屋の主だ。残りの二年生はベッドや床に座り込んでいる。座れとは言われなかったから二人は扉を背に立ちっ放していた。
「キーパーのレギュラーも検討し直すそうだ」
ベッドで床を睨みつけていたGKが顔を上げる。選手権大会で昨年の三年生GKが引退後にレギュラーを勝ちとった人だ。春休みから練習に合流しているので一年生も多少は人柄をわかっていた。
恵まれた体格と瞬発力と勘の良さ。キーパーをやるに必要な資質を備えていて、それを自負している。冬の大会を見た限りでは引退、卒業した三年生GKよりも上手いかもしれない。新三年生の第二GKはよく言えば地道で真面目。悪く言えばパッとしない。それと比べると練習中の声の大きさからしても頼もしく目を引く選手だった。
「お前、監督に何か言ったのか?」
飛鳥享は相手が年上だろうと、急に無理を言われようとも慌てたりしない。
入寮した翌日にたまたま一緒に買出しに行くことになって、その途中で外国人に道を聞かれて困っている女性と出会った。
英語で話しかけられているのだが訛りがきつくて女性と三人で当たっても上手くコミュニケーションが取れなかった。そこで享は買ってきたばかりのノートとペンを引っ張り出して地図を書いた。目印となる建物に添えるメモは当然英語だ。それを渡して短くやりとりがあり、外国人が明るい顔でお礼を言って別れるまで。最初に手こずったのが嘘みたいにスムーズだった。
また、あるとき、職員室の外にまで怒声が響きわたる中に乗り込んでいったこともある。
体育教師が似合いそうな数学教師が外部受験で高等部に入った一年生を叱り飛ばしていた。呼び出しに遅れたのが理由らしいが、その日は最後の古典の授業が長引いた上、中等部の頃から行き来のある内部進学生ならともかく、外部受験生はまだ校舎にも馴れていない頃だった。
別件で職員室を訪れた享は一度退室して国語科準備室まで行って理由をつけて初老の古典教師を引っ張って戻ってきた。その上で丁寧に数学教師に頭を下げて口を挟み、職員室内の自分の席に一旦腰を落ち着けた初老の教師を紹介した。彼が「今日最後の授業だと思って引き伸ばしてしまってね、ご迷惑をおかけしましたね」と言えば彼より若く体育会系ノリの数学教師は黙るしかなくなる。
後日、助けられた外部受験生が吹聴しているのを聞いて感心したものだ。関わり合いになりたくなくて見捨てる奴の方が多いだろう。割って入っても一緒になって怒られるのが関の山だ。
入学から少しの間にそんなエピソードを耳にした真屋は、享には怖いものなどないように思っていた。
渋面で居並ぶ先輩を前に、享は戸惑うような悲しむような顔をした。少し考えて短く返す。
「今のチームはどう思うか。理想はあるかと、訊かれました」
「で?」
「…………もっと守備が攻撃の起点となるべきだと」
「今はできてないってか」
「そういうつもりではなく……」
なるべく穏便に済ませようという焦りが横にいても伝わってくる。いつもの冷静な顔で受け答えしても年上のプライドを傷つけたかもしれないが、叱られる子供みたいな歯切れの悪さも正解ではない。
それまでじっと様子を見つめていたGKの少年が空気の淀んだ部屋に響き渡る声で口を開いた。声量のある人だが、それでなくても通る声をしている。
「俺は確かに足元が弱い。前線に送るロングパスも雑だ。そういうことだろ?」
「個人名を挙げて意見は言っていません」