賢い鳥3
光のない方を選んで逃げる。携帯も財布も靴も荷物も、すべて宿舎に置きっぱなしだから敷地の外へは出られなかった。できることならそのまま帰りたかった。とにかく闇にまぎれて隠れてしまおうと思って来てみれば、どこをどうきたか自分でもわからない場所に出てしまう。
思ったよりも敷地が広く、建物も一棟では終わらないので完全に迷ってしまった。前に進めどどこに向かえばいいのかわからない。来た道を引き返せば追手がいる。そもそも、思っていたより隠れる場所がないのだ。漫画みたいに上手くはいかない。
「荒木!」
迷っているうちに追いついてきた追手がシャツの首を掴んだ。勢いで後ろに引かれて悲鳴も出ない。カエルの断末魔のような潰れた声をあげてよろめいたのを傑が胸で支えた。暗がりで見上げた顔は無表情だったけれど、余計に怖い。往生際悪く逃げようとしたその腕をがっちり掴まれる。
「放せっ……おいこら、放しやがれって!」
暴れても振りほどけない。コイツは見た目よりもずっと力がある。
引きずられて連れ戻されるのかと思っていたら、正面玄関前を通りすぎて角を曲がったところの花壇の縁に腰を下ろした。とっくに抵抗を諦めているものの腕は掴まれたまま。
「中に戻るんじゃねえのかよ。ここ、ロビーの裏か?」
ちょうど目隠しになる高さの植え込みの向こうには縦長の窓が見える。今は消灯していて非常口の緑色の光が天井に反射していた。
「もう人はいない時間だし座れるから話すのにちょうどいいだろ?」
座れと手を軽く引かれて諦めた。隣に座って盗み見た傑は、怒っている風には見えなかった。
不意に顔を上げた瑛が左耳にだけはめていたイヤホンを外した。つられて享も顔を上げる。
ポータブルDVDプレイヤーは去年のU-17W杯の試合を再生し続けていた。
宿舎の奥でどっと笑い声が立つ。その後の静寂に別の話し声が混じった。
瑛がロビーのソファの上でそっと上半身をひねって天井端の梁までの大きなガラス窓に顔を寄せた。すぐ外は月桂樹が壁のように枝葉を茂らせている。真っ暗な生垣の向こうは見通せない。
その代わりに耳を澄ませば開けっ放しになっている端の窓の隙間から声が漏れ聞こえる。しばらくして瑛が確信を持ってつぶやいた。
「傑とアイツだ」
アイツというのが誰かは享にもすぐわかった。ちょうど荒木が声を荒らげたからだ。
「――――簡単に言うなよ!お前じゃねーんだよ…そう何度も…」
尻すぼみになって言葉が聞こえなくなる。その後も遠くの暗闇に揺れるカーテンみたいに断片的に窓の隙間から声が流れてくる。
おそらく、邪魔が入らないようにそこを選んだんだろう。ロビーは非常用の灯りが残っているばかりで消灯済みだ。
瑛と享も静かなのを期待してここを選んだ。今回は享のいる部屋が連日たまり場となっていて、注意されないよう騒ぎすぎには気をつけているとはいえ落ち着かなくて、こっそり瑛を誘って抜けだしてきたところだ。
再生中の試合はまだ前半十一分。ソファの居心地が良くなってきたところだった。
「こんな時間に何やってんだアイツら」
「こんな時間はお互い様だろ」
外れかけたイヤホンをはめ直して緑の画面に向き直った。直後にきれいなミドルシュートが放たれた。GKの手に当たってゴールポストに防がれ、歓声と落胆のどよめきがイヤホンから直接右耳に注ぎ込まれる。
「そういやアイツ、監督に呼ばれてたよな」
「ああ、どうせ態度のことだろ。今日も杉下に絡まれてたしな」
「アイツが目上を舐め腐ってるから目をつけられンだよ」
「だから杉下じゃなく荒木が呼ばれたんだろ」
杉下や永瀬も目に余る部分は注意を受けていた。でも、部屋にまで呼びつけられたのは荒木一人だ。
荒木竜一は生意気なのは間違いないが、センスは良い。傑などは認めている。だが、それが余計に面白くない人間もいる。
全国屈指の選手が集まる代表チームの中でも傑は特別な存在だった。傑と同じピッチに立つことが夢だったという選手もいる。そのためにわざわざユースの誘いを蹴って鎌倉学館に入学したのは瑛ぐらいなものだが、そういう気持ちは享にもわかる。実際、鎌倉学館中等部のサッカー部員には傑に憧れて集まってきた少年も多いらしい。
当然、監督にも一目も二目も置かれている。今回の合宿で初めての練習試合は鹿島ユースが相手だったが、そのベンチに色々な欠点が目立つ荒木がいたのも傑の働きかけがあったからこそだ。結局スタミナ面での問題があからさまで長くピッチには立っていなかったものの、傑のメンツは潰れなかった。交代直後に見せた、傑と二人で描いた鮮やかな一点。それをまぐれだと貶める選手は一人もいなかった。実力はある。
「でもサッカーは団体競技だ」
あの練習試合があった夜にもそう言って瑛は厳しい顔をした。瑛は頑固なわけじゃない。昼間の試合で荒木のことを随分見なおしたようだったが、試合の後にも杉下と小競り合いがあった。杉下も悪いが、その他にも荒木に厳しい目を向けている者は多い。そういう連中を黙らせるほどの実力があるわけでもない。
合宿後半には同世代の海外代表チームとの練習試合が組まれた。チームとしての結果は悪くなかったが、それ以上に個人評価が決まるラストチャンスでもあった。勝ちで明るい合宿所にもぽつぽつ暗い顔が散見していた。
明日は最終日。昼には解散となる。次に会えるとしたら海外遠征メンバーに選ばれたその時だ。
今回の合宿はU-16に本始動前のU-15候補が混じっている。荒木と島、鬼丸がそうだ。今後はU-15だけで行う合宿や大会のスケジュールが組まれているので遠征には呼ばれないことになっている。目指す大会の規定に年齢の下限はないが、U-15の中心となる人材も必要だし、そこから無理に選抜するほどU-16の層は薄くない。
とはいえ、最後の晩餐の「いただきます」の声が小さかった連中よりよっぽど良かった。特に、最初の印象が最悪だった荒木。練習試合でベンチ入りできたこと自体が奇跡だったが、短い時間の中でも分かってしまった。傑が本気で荒木に期待しているってことが。
「めんどくせえやつにばっかりハマりやがるんだよ、アイツ」
何がそんなに良かったか、傑は荒木を気に入っている。U-16の傑と、同学年ではあるがひとつ下の世代扱いになるだろう荒木は、今回の合宿を終えたら当分の間一緒にやる機会がなくなる。間違っても来月の遠征に荒木がいることはないだろう。
その上、センスは瑛も認めるが、スタミナ面、性格など問題も多い。合宿中、一度足りとも世話を焼いたりしていないが、手のかかるヤツだというのはわかりきっていた。
荒木の方もヘラヘラしているが、瑛に好かれていないのはわかっているようで、あえて関わってくることもなかったが。
「……なんだかんだ言ってタカも面倒見がいいよな」
享の言葉が納得行かなくて視線をやる。
「…………」
「面倒見がいいんじゃなくて逢沢が特別扱いなのか」
「傑は、しっかりしてるように見えてもサッカーから離れたとこじゃ結構抜けてンだよ」
「へぇ」