賢い鳥3
夏の大会を終えた頃に実家に顔を出した。
実家といっても帰省と言うより帰宅する距離だ。
春の入寮以来、部活が忙しいと言って一度も帰省せずにいた。
実際、すでに名門葉蔭学院サッカー部でレギュラーの座を獲得していた上に年代別代表として招集を受けている享は多忙だった。とはいえ大会が一段落した今となっては日帰りする必要はない。それでも享は盆だって帰る気はなかった。
「折角一人息子が久しぶりに帰ってきてるってのに、お父さんったらいつも通り出かけちゃって」
ため息混じりの母に苦笑した。父が日課の愛犬の散歩を欠かしてまで待っているとは思わなかったからこの時間にしたのだ。母もそれをわかっていて言うのだ。
「パスポート書類が揃ったらすぐ帰るよ」
「ホントにすぐ帰っちゃうの?ご飯食べて行けばいいのに」
「寮にも夕方までに帰るって届け出てあるから」
「じゃあ今お茶入れるから、お茶くらい。ね?」
返事を待たずにパタパタ台所に向かう母を見送って久しぶりのソファに腰を下ろした。
いつの間にか新しいものになっているテレビの電源を入れると有料チャンネルが映った。元々テレビ自体熱心に見る家ではなかったのだけれど。
「それね、お父さんが決めて契約したのよ」
「へえ、ニュースしか見ないのに」
「見たいチャンネルがあったみたいでね。でも受信料がもったいないぐらい見てないから、享が見たい番組があったら録画予約していってちょうだいな。そうして今度帰ってくる時にまとめて見たらいいでしょ?」
「それで泊まってけって言うんだろ?」
「もちろん」
番組表を見てみると、確かに興味のある番組はいくつかあった。サッカー専門チャンネルでは地上波では絶対に放送しない海外リーグの試合の放送予定がみっちり組まれている。
「じゃあやめとくよ」
「もう、愛想がないんだから」
約束通り紅茶を一杯と、盆明けに控えた代表の海外遠征に向けた書類を受け取ってすぐ家を出た。予定より長く滞在してしまったけれど、その間父が帰ってくることはなかった。代表として周囲に認められるようになっても父はまだ認めていない。
わかっていたから顔を合わせないよう帰ってきたのだ。それでも、もしかしたら、という気持ちがあったんだろう。
帰り際に差し入れといって持たされたクッキーを片手に玄関扉を開けても、門を開けても、帰ってきた父と愛犬に出くわすことはなかった。
期待をしすぎた。気を引き締めて寮への帰路についた。
人口密度の高い車両を降りるのとぬるい空気に包まれるのはほぼ同時だった。
空いていて冷房も十分な車内から出るよりも体感温度差はないし、むしろ風がある分マシかもしれない。
改札を抜けても人は多い。八月半ばの日曜日。場所は鎌倉。
ほとんどが夏休みを利用しての観光客で、年齢層も父親に抱かれた幼児から貸切バスを待つ老人の団体まで、幅広い。
人ごみをすり抜けて出口付近にいるはずの待ち合わせ相手を探すと、ギリギリ日陰になっている隅っこにジャージ姿を見つけた。
そのすぐそばを走って横切ろうとした小学生の少女が、ぶつかった。
この人出では仕方がない。ましてや余所見をしていた小さな子供だ。
少女は勢い良くジャージの腰に肩をぶつけてよろめいた。後ろに尻もちをつくようなことにはならずホッとしたのもつかの間。障害物を見上げて凍りついた。
長身の目付きの悪い男が無言で見下ろしているのだ。親しければ睨んでいるわけではないとわかるが、暑さのお陰で眉間に深いシワが刻まれている。初対面の少女には酷だった。
震える唇をパクパク動かし、声がでない金魚のようになっている。仕方なく無理に人を押し分け駆けつけた。
「大丈夫?」
先に振り向いた瑛が、今度は確かに機嫌を損ねて眉尻を上げた。先に声をかける相手を間違えてるんじゃないか、という視線は無視した。
「こいつは、連れなんだけど、別に怒ってないから大丈夫だよ」
屈んで目線を合わせてなるべく優しく話しかけた。少女は恐い男と割り込んできた男を見比べて、小さな声で「本当?」と搾り出した。
「ああ。気にしてないから行けよ。あれ、親じゃないのか」
ぶっきらぼうに指さした先には怪訝な顔で様子を伺いながら向かってくる中年女性がいる。少女と目が合うとパッと片手を挙げた。
「走ると危ないから今度は気をつけるんだよ」
屈んだまま微笑むと、はにかんだ様子でコクコク頷いて、チラリと瑛を見上げ一歩後ずさってから「ごめんなさい」と言って背を向けた。
それから走りだして、すぐにピタリと止まってこっそり振り向き、享と目があった途端に正面を向きなおして今度はぎこちなく歩き始めた。
「マセガキ」
「タカ」
横目で睨むが瑛は堪えた様子もなく鼻息で不満を表明した。
「暑いからさっさと行くぞ」
「待てよ。どこに行くんだかまだ聞いてない」
「三十分ぐらい歩く。来りゃあ分かる」
さっさと日陰から踏み出した。
数日前に電話をかけたのは享の方だ。有料チャンネルで見たい試合があるから録画してもらえないかと理由をつけたが、わざわざ電話してまで頼むほどではなかった。なんとなく、話がしたかった。あと十日もすれば代表活動で顔を合わせるのが決まっていたのだけれど。
「次のオフいつだ。――その日はうちも練習は午前で終わるから一時半に鎌倉駅まで来いよ」
「急ぎじゃないから次に会う時でいい。それになんで鎌倉なんだ」
「別に用事があるわけじゃないならいいだろうが」
こうして鎌倉での予定をはぐらかされたままやってきたのだ。駅で合流してから宣言された三十分の移動中にも説明されないとは思わなかったが。
逃げ水を追うように歩き続けた。電車で四十分ほどとはいえ、実家や親戚があるわけでもない鎌倉は久しぶりだった。完全にプライベートで歩くのは初めてかもしれない。
しばらく歩いて瑛が足を留めたのは寺の門前だった。観光の定番の鶴岡八幡宮などではない。ここがどこかもよくわからない享には何があるのかもさっぱりだった。
「そこ、境内の縁の下」
言われて目を向ける。指さされたあたりで縁の下に向かってしゃがみ込んでカメラを構える人が見えた。その足元に日陰に溶けこむようにして何かがいる。
「猫?」
よく見ると建物の影や木陰に隠れるように何匹かの猫が散らばっている。街中でも駐車された車の下などで見かけるが、それに比べてやけに多い。
「ここは猫が多いっていうんで有名なんだとよ」
人馴れしているらしく近寄っても逃げる様子がない。
「こんだけ馴れてりゃお前でも逃げられないだろ」
「……ありがとう」
思いがけずはしゃぐ気持ちを抑えて涼しげな木陰に落ち着いている一匹に歩み寄った。
渋い顔をした茶色のトラ柄だった。毛づくろいを終えてあくびをしている。
その一メートル手前にしゃがみ込んであわよくば触れないかとそっと手を差し出した。
「フシャーッ!」
ダメだった。引っ掻かれこそしなかったものの、それまでのリラックスをさっさと投げ捨てて毛を逆立てられた。
「プハッ」
少し離れた場所で黒ブチに擦り寄られている瑛が噴きだした。
「未だに猫に嫌われてんだな」
「……うちには犬がいるから――」