賢い鳥3
「もう何ヶ月も寮に住んでてそれはないな」
きっぱり断じられて唇を噛む。警戒態勢のままの茶トラから離れて瑛のいる日陰の隅に滑り込んだ。黒ブチにも警戒されたらと心配して距離をとったが、間合いに踏み込んでいないのか気にも留めてもらえないのか、黒ブチは瑛のスポーツバッグに擦り寄ったままだ。
「人間には懐かれても猫にはてんでダメだな」
「その言葉、真逆にしてそっくり返すよ。何でそんなに気に入られてるんだ」
「多分コレだな」
スポーツバッグをかきまわして開封済みのビニールの小袋を取り出した。
「何だ?」
「おやつ小魚」
「ズルい」
つぶやくと笑いながら袋ごと手渡してくれたが、黒ブチは擦り寄ってはこなかった。距離を保ったまま袋を睨みつけている。いっそ悲しくなってすぐに瑛に返した。
「こんなの好きだなんて知らなかったな」
「好きじゃねえよ。部活中に上と喧嘩したら帰りに仲間からカルシウム摂れって押し付けられたんだ。でも美味くねえから一口でやめた」
瑛の手に戻った途端催促を始める黒ブチに「人間用の味のついたやつだからやめとけ」と一言。そんな雑な入れ方でバッグの中に散乱しないのか、サッとバッグにしまい直してジッパーを閉めた。
刻々と気温の上がる境内に長居はしなかった。居たところで一向に猫に相手にされない。そのたびに瑛は愉快そうにするが、部活帰りであることを考えたら粘る気にはならなかった。
「よくあんな場所知ってたな」
帰り道も享が半歩後ろを歩いた。方向音痴ではないが初めて来た場所だけあって来た道を戻るのも自信がない。
尋ねると瑛が一瞬だけ振り返る。
「傑に聞いた」
「逢沢……」
「あいつは地元だからな。たまたまあの寺の話を聞いたんで、そのうちお前を連れてきてやろうと思ってたんだが……」
照りつける太陽に片手を翳した。
「こんな暑い時期に来るもんじゃねえな。秋にでもすりゃ良かった」
「これから忙しくなるからそんな暇なくなるさ」
「選手権予選の決勝が十一月だろ」
「うちは県大会で暇になる予定はないけどな」
「俺もねえよ。……でも、来年は夏だって暇にはしねえ」
地面に影が落ちて空を見れば大きな翼の鳥が悠々と滑空していた。電線や民家の屋根から不恰好に羽ばたいて飛び上がる鳥をあざ笑うかのような堂々とした姿で。
「タカの本番が始まるな」
「お前だってそうだろう?」
享は答えなかった。
そのまま会話が途切れ、間もなく見覚えのある駅周辺の景色に戻ってきた。
「もし、お互い暇になったときにはまた連れてきてやる」
それから三ヶ月。高校サッカー選手権の県大会をそれぞれベスト8と準優勝で終え、連絡を入れたのは先に冬の大会を終えた瑛からだった。
あと数日で十二月になる頃に横浜駅で待ち合わせをした。
忙しい時期は抜けたはずだったが、夏のように鎌倉で会うほど時間がとれなかったので、それならばと放課後に買い物に行くことになった。
買い物といっても、享が寮の自室に置くトレーニングマシンを探しているので、中古店を巡る予定だ。色気も洒落っ気もない。
「自前で揃えるにしても高くつくぞ」
「貯めた小遣いでちょっとずつ中古で揃えるつもりだよ」
受話器越しに呆れた吐息が聞こえたが、
「お前らしいといえばお前らしいな」
そしてお互い放課後に部活がない日に約束をした。
寮生活の享が放課後の駅を訪れることは少ない。場所自体が珍しいわけではないけれど、様々な制服の学生や社会人でごった返すこの時間特有の空気に飲まれながらも少し早めに到着した。
瑛が乗る予定の電車は少し遅延しているようだった。
携帯と時刻表を見比べて、一本乗り逃したと仮定して待ったが、来ない。
改札前に移動して次の便が着くのを待ったが、ついに瑛が改札を抜けてくることはなかった。
一時間待ってもメール一通返ってこないので電話をかけた。
何度もコールして、留守番電話メッセージが流れかけたところで瑛が出た。
「今どこだ」
「わるい、自主練してたらちょっと怪我して、今病院」
「なっ」
大会が終わったとはいえ何でそんなつまらない怪我をしているのか。そもそも部活がないからとこの日に約束をしたのに。
怪我の心配より待ちぼうけた時間分の怒りが上回って怒鳴りそうになった。その前に瑛が低い声で続けた。
「今日……今朝、傑が死んだ」
一瞬息が止まった。駅の雑踏が遠のいて瑛の静かな声だけが耳に残っているのに、意味を理解するまでに時間がかかった。
何の冗談だ。いきなり何なんだ。投げかけたい言葉はいくつもあったけれど喉につかえて出てこない。でも、瑛がそんな冗談を言わないのもわかっていた。
「待てよ。今、鎌倉の病院なんだな?すぐ行くから」
「そんな酷い怪我じゃねえしいい」
「いいから、すぐ行く」
無理に病院の場所を聞いて慌ただしく改札を抜け、ホームに滑りこんできた電車に飛び乗った。
駅から十分の小さな病院の軒下に瑛はいた。言葉通り怪我は酷いものではなく、念のために受診したらしい。
「だから大丈夫だって言ったろ」
そう言いながら立ち上がった途端によろけるので肩を貸した。大げさだと断られても享は譲らなかった。
「約束してたのにわるい」
「ああ。なんだって自主練なんかしてたんだ」
瑛らしくない弱い声を誤魔化したくて自然と声が大きくなった。
「ホントに悪かった。一日落ち着かなくて、部活もねえし、お前との約束も頭から抜けてて、何かしてないとダメで……思い出してお前んとこ行けば良かった」
病院前にはスロープもあったけれど瑛が階段に向かったのでそうした。短い階段の途中で踏み外しかけた瑛が肩を強く掴んだ。足を戻して体が安定しても、ギュッと握った手はなかなか離れていかなかった。
朝から天気の良い日だったが、唇を噛んで見上げると見渡すかぎりの空を灰色の雲が覆い尽くしていた。
雨は降らなかった。
それでも雨の匂いを含んだ空気が辺りを包んでいた。
息苦しくて足も重い。
無言のままなんとか駅まで歩いて、仕事を終えた瑛の母が車で迎えに来たのに二人で乗った。一度は遠慮したものの享は寮まで送ってもらい、短いやりとりだけで別れた。
いつも通りに寮で夜を過ごす間、突然の逢沢傑の死を案外冷静に受け止めている自分に気づく。瑛ほど親しかったわけではないにしても。
気持ちの整理がつかないだけかと思った。まだ信じられないとも思っている。でも、それだけでもない。
傑自身のことより強く掴まれた肩が。
指あとなんか残っていやしない肩をそっと触る。
雨は降らなかった。でも、肩を貸していたせいで吐息の震えはわかってしまった。
両手で乱暴に顔をこすり上げる。涙なんか出ていないのに。
まだ、鎌倉の町の湿った空気が鼻の奥に残っている気がする。
傑の死と現実の間に瑛がいた。瑛を通してしか傑の死を現実だと感じられない。
まとまらない頭のどこかに苛立ちがあった。悲しむべき時なのに。
自分がとても自分勝手な酷い人間のようでたまらなかった。
それからの二年間。代表招集や試合のために何度も瑛に会った。
でも、プライベートで連絡を取り合うことは一度もないまま。