我が心臓に杭を
ハリーいわく、学ぶべきことは実践によって学んだというのである。確かにそれはその通りで、彼ほど「実戦的な」魔法に長けている者は、そうそういない。強さの問題ではなく、そういう状況に慣れているという点で、彼はもはやエキスパートだった。
ネビル・ロングボトムはホグワーツ校に残った。薬草学を本格的に学びたいと思い、魔法大学へ進学することを決めたからだ。そのため、最終学年の時に勉強しそこなった部分を埋めておかなければならなかった。
ロン・ウィーズリーは、親友のハリーと一緒に社会へと飛び出していった。ハーマイオニーは最初、彼にはまだまだ勉強するべきことが山ほどあると言って反対していたが、結局は、何を言っても無駄だと諦めたらしい。
ネビルは、ちょくちょくデートのためにホグワーツにやって来るロンに、本当にいいのかと聞いてみたことがある。
すると彼は、知識が必要になったときはハーマイオニーに個人授業してもらうから大丈夫だよと言って、のろけ混じりに笑っていた。
ハーマイオニー。彼女は当然のごとく残った。
「身の危険を感じずに勉強に没頭できるのって、幸せなことよね」
たびたび彼女はそう口にした。ネビルもおおむね同意だが、彼女の没頭ぶりはやや度を越しているのではないかとも思う。
ハーマイオニーは、自分の勉強をするだけでなく、下級生の面倒も見ていた。何しろ戦後処理で英国魔法界はてんやわんやだったし、ホグワーツの教授陣も政治的な問題に巻き込まれて多忙を極めていた。どこもかしこも手が足りなかった。となると、成績優秀で責任感の強い彼女が、授業や補修や色々な事務仕事の手伝いに駆り出されたのは、当然の成り行きとも言えた。
「あら、私は結構楽しんでいるけど?」
大変そうだねと声をかけたネビルに対し、彼女は晴れ晴れとした表情で答えた。図書館の机で本の山に埋もれ、忙しく羽ペンを動かしながら、ハーマイオニーは嬉しそうに微笑む。彼女は今、三年生のための魔法薬学の試験問題を作成しているところらしい。
「私自身、復習ができるし、とても良い勉強になるわ。人に教えるのが一番の勉強法と言うけれど、本当にその通りね」
そう言ってさらさらとペンを走らせる。
「難しすぎるって言われない?」
「そんなことないわ。基礎的な知識を問う問題ばかりよ」
(基礎的…かなぁ?)
ネビルは問題文の書かれた紙を覗き見て、彼女の試験を受ける後輩たちに少しだけ同情した。
「ああ!もうこんな時間!…仕方ないわね…」
図書館の閉館時刻になっていた。ハーマイオニーは、資料となる本を借りて、寮で続きをやろうと決めたようだった。
「すごい量だけど…大丈夫?」
ネビルは、大量の本を積み上げて運ぼうとする彼女が心配になり、手伝いを申し出た。
「ありがとう、助かるわ」
ハーマイオニーはネビルを見上げてお礼を言った。警戒心のない素の笑顔の愛らしさに、ネビルは少しどきっとする。
入学した頃は、彼女とほとんど差のなかった身長。ネビルは、ここ数年でぐんと背が伸びた。体つきも逞しくなった。昔の彼しか知らない者は、彼がネビル・ロングボトムだと知ると驚いて口をあんぐり開ける。
それでも、ハーマイオニーにとっては「どじっ子の小さなネビル」のままなのかもしれないな、と彼は思った。ネビルは彼女から、みじんも警戒されていない。それはそれで嬉しいのだが、もう少し男とは距離を取るようにしないと心配だ。近頃彼女はますます綺麗になったから。
「私ね、もっとたくさんのことを教わりたかったわ…」
廊下を歩きながらハーマイオニーが呟いた。
「だから今、それを取り返そうと頑張ってるんだね」
ネビルが言うと、彼女はどこか悲しげな様子で、首を横に振った。
「取り返せないわ。亡くなった人からは、もう、授業も補習も受けられないもの」
彼女が誰のことを言っているのか気づいたとき、ネビルは胸の奥が、ちくりと痛んだ。そして、彼の死をそのように感じる自分に驚いた。
(なぜ…?)
ハーマイオニーが嘆くのは分かる。彼女は薬学教授としての彼を尊敬していたから。だが、自分は?いつも魔法薬学の授業では劣等生だった。闇の魔法に深く通じているという彼に対して恐怖し、自分の両親を生ける屍に変えたデス・イーターの仲間だったのだ思えば嫌悪さえ抱いた。最後の年、彼を敵と思い込んでいたときには、口には出さずとも、裏切者、卑怯者…と、内心罵っていた。
そんな自分が、なぜスネイプの死に、心を痛めているのだろうか。しかも、ただの追悼の念ではない。これはもっと根の深い悲しみだ。まるで愛する人を失ったような…。
ネビルはふと立ち止まった。
(あれ…?この場所…)
見覚えがある。
それを言うなら、学校じゅうどこだって見覚えはあるのだが、そういうのとは違う。
(こっちだ)
何かに導かれるようにネビルは角を曲がった。
「ネビル?そっちから行くと遠回りになるわよ?」
不思議そうにハーマイオニーが声をかけてきた。
「うん。でも…何か…あったはずなんだ、このあたりに」
ネビルは曖昧な返事をした。
廊下に面して、古ぼけた木の扉があった。どくん、と心臓が跳ねる。
「ごめん、ちょっと本置かせて」
両腕いっぱいに抱えていた本をいったん床におろし、彼は夢中で扉に走り寄った。
扉を開けると、埃っぽい空気のにおいがした。
(あ…!!)
ネビルは立ち竦んだ。
棒立ちになって動かないネビルを見て、ハーマイオニーは小さく首をかしげた。横から覗き、背の高い彼の顔を見上げようとする。
「どうしたの?ネビル」
彼の顔を見た瞬間、ハーマイオニーは驚いた。
ネビルは、ぼろぼろと涙を流していた。静かに、声もなく。
「ど、どうしたの…?」
「…なんでかな。止まらなくて…」
彼は嗚咽し、床に崩れるようにしゃがみこんだ。
ハーマイオニーはネビルの心の中に、深い深い悲しみを感じ取った。彼女は、黙ってそっと彼の背中に手を添えた。
「ハーマイオニー、僕はね、大切な人を亡くしたんだ…。それを、今頃になって思い出したんだ」
ネビルは、すべての記憶を取り戻していた。
(約束、守ってくれたんですね…スネイプ先生…)