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深淵の月・わたしの人形はよい人形

　その夜、桐生院怜と嵯峨崎仁はそれぞれの自宅で同時刻に強烈な気の拡散を知った。見知った人間のひきちぎられるような名残を感じ二人は咄嗟に動けなくなったほどだ。瞬時に「繋がっている」者同士の連絡手段で相互認識の齟齬が無い事を確認し、互いが自室で同時に囁いた。

　　　　「「　…カンちゃん？　」」

それから一晩ずっと連絡を取り続けたがその相手は電話にもメールにも返事を返さなかった。その相手、警視庁特命係・神戸尊は忽然と姿を消したのだった。



　翌日。怜と仁は始業時間前の特命係を訪ねた。出勤してくれていればいいのだがと小さな期待を持って。
　　「杉下さん！」
　　「おや。おはようございます桐生院さん、仁君。」
　　「おはようございますー。杉下さん、カンちゃん今日は来てはらしませんの？」
仁がさりげなく訊ねる。怜が神戸のデスクに近寄りそっとそれに触れた。
　　「神戸君は今日は公休日です。彼に用事でしたか？」
　　「はい、昨夜から連絡してるんですけど、カンちゃん出てくれませんねん。」
　　「おやおや。」
にっこり笑ってモーニングティーの入ったカップとソーサーを置く。立ち上がって上着から携帯を取り出し杉下がコールした。
　　「…出ませんね。」
　　「ずっと留守電ですねん。今日どっか行くゆうてはりました？」
　　「いえ、特には伺っていません。」
そう言ってデスクの電話の受話器を取りそらでナンバーを押した。どうやら自宅の方らしいがやはり出ないらしい。
　　「なんや、デートやろか。」
仁が茶化した。杉下もにこりと笑って答えた。
　　「そうかもしれません。とすると、あまりしつこくコールするのも野暮ですね。」
　　「うわ、確かに。」
デバガメやーん、と笑う。仁が上手く杉下の気を逸らしている間に怜はデスクに残った神戸の「影」を追っていた。
　　「…仁、行こか。出てくれなんだらしゃあないもんなあ。」
　　「せやなあ。デートやったら邪魔したないしな。」
にっこり笑って顔を見合わせる。杉下に軽く挨拶をして連絡があったらこっちに教えてくれるよう頼み、特命係を辞した。笑顔で組対五課を通り過ぎ廊下に出た途端怜が走り出した。仁がすぐさま追いかける。階段を駆け下りながら怜が携帯を取り出し素早くコールした。
　　「誰や怜！」
　　「憲兄（けんにぃ）や！」
言ってる間に伊丹が出た。六階にいる筈の伊丹に直接会わず、一階に向かいながら電話をかける時点で既に仁は事の性急さを悟っていた。
　　『あー？どした怜。おはようさん。』
　　「憲兄、おはようさん。あんな、ゆうべな、カンちゃんと飲んだやろ？」
　　『あー？おう、いつもの居酒屋でな。それがどーした？』
　　「どこで別れたん？お店の前？」
　　『ああ、昨日は珍しくほろ酔い程度で出たからな、いつもみたいなへべれけ状態だったらまた俺んちに泊めるとこだったが。』
楽しげな伊丹の台詞にその方がよかってんイタミン！と仁がツッこんだ、心の中だけだったけれど。というか怜の“通話”を普通に全部聞けてしまう辺りがやはり“聞く”に特化した仁の能力といえよう。
　　「お店って例の「峠のたぬき」ってとこ？」
　　『ああそうだ。なんだ、どうした怜？』
　　「ゆうべからカンちゃんと連絡取れへんねん、憲兄なんか聞いてへん？」
　　『いいや？なんだ、急ぎか？』
　　「うん、もしカンちゃんから連絡きたら私か仁に折り返し連絡するようにゆうたって。おねがい憲兄！」
　　『ああわかった。お、朝礼だからまたな。』
プツリと通話が切れる。一階に着いて二人は警視庁のロビーを駆け抜けた。
　　「どこまで見えてんや怜！？」
　　「居酒屋の前までや、その後がどうしても見えへんかった！」
　　「見えへんてなんやねん！」
　　「知らんがな！ジャミングされてんかもしれん！」
おいおい！仁は内心でまたしてもツッこむ。他の能力者ならまだしもコイツは桐生院怜なのである、キリュウの血を以ってしても探れないとなると相手はかなりの力の持ち主かもしれない。しかも「現実的な事件の加害者」ではなく「怜や仁の領分の相手」という可能性が一気に高くなる。それを裏付けるかのように上空にいきなり黒い影がさした。鳥だ。黒い不可思議な鳥である。
　　〈おぅ怜！仁！探しもんはあの別嬪だろ！？〉
　　「柘榴！」
　　「なんやおまえ知ってんのんか！」
　　〈ああ！けどあっしじゃどうにもやりようがなかったんでぇ！案内すらぁ、ついて来な！〉
“バサッ！”　片目のカラスが大きく旋回し羽ばたく。怜と仁は全速で突っ走った。


　　〈ここでぇ！〉
　柘榴が一度羽ばたいて止まった場所は言われなくとも二人にはわかった。三月の爽やかな早朝だというのにざわあっと全身に怖気が立った。
　　「ちょっ…！」
　　「なんでこないなもんが警視庁のお膝元に出来とんねん…！！」
そこは桜田門からほど近い裏路地だった。官庁街をあてこんだ飲食店が軒を連ねる一角で、朝の陽光を浴びて宵っ張りの通りは逆に眠たげな様相を見せている。普段なら呑気に過ぎる筈の時間はしかしここだけはそれを許さなかった。真っ黒な穴が穿たれ瘴気としか言いようのない空気が立ち昇っていたからだ。実際に目に見える者は少ないだろう、しかし。
　　「なんやねんこれ、まんまブラックホールやんけ…！」
　　「柘榴どういうこと？まさか、まさかカンちゃんここに…？」
　　〈ああそうさ！すっぽりとっつかまって消えちまったんでぇ！この穴の向こうによ！！〉
　　「なんやてェ！？」
仁が叫ぶ。ここに捕らわれたら一体どこに飛ばされるのか見当もつかないからだ。怜はあまりの事に眩暈がした。
　　「どこや、これの繋がってる先はどこやねん柘榴！」
　　〈あっしが知るわきゃあねえ！〉
　　「どうして昨夜のうちに教えてくれなかったのよ柘榴！！」
ショックが強すぎて思わず標準語に戻った怜。その方言の変化は怜の感情のバロメーターでもある為仁はぎょっとして怜を見た。アカン、“針が振り切れてまう”、仁は咄嗟に怜の右腕を掴んだ。
　　「どうして！？私や仁にならあなたの声は届くわ！どうして教えてくれなかったのよ柘榴…！！」
　　「怜アカン！落ち着きい！」
　　〈あっしぁずっと叫んでやしたぜ怜！ずーっと一晩中ここに来いって呼んでたんでえ！！〉
　　「え…？」
ふうっと怜の緊張が解けた。ばさりと羽ばたき柘榴は仁の肩に留まって金色の瞳で怜を覗き込んだ。