凌霄花 《第四章 身をつくしても…》
「由紀? 厠かしら? 由……」
早苗は背後から忍び寄ってきた何者かに動きを封じられてしまった。
助三郎が目を開けると、目の前にあったのは真っ黒な犬の真っ黒な悲しそうな目だった。
『助さん、お腹減ったよぅ』
「あれ、朝飯前まだ貰ってなかったか?」
『晩ごはんも貰ってないの。朝御飯まで我慢できない。何かちょうだい』
「ごめんな。じゃあ、朝御飯もらいに行こうか」
助三郎が起き上ったその時、男の悲鳴が役宅に響いた。
「なんだ!?」
慌てて部屋を飛び出し、クロの導きを頼りに、声の主の元へと急いだ。
由紀の使っている部屋で、格之進が突っ伏して泣いていた。
「大丈夫か?」
彼女は激しく泣きじゃくるばかり。
男の姿でそこまで泣くのは珍しい。
変わり身のコツがいまだつかめていないのにもかかわらず、慌てて変身したためか、
着物だけ女のまま……
「……なにかあったのか?」
泣きじゃくるだけの彼女。
心配したクロが涙を舐めていたが、泣きやむ様子もない。
すると部屋の隅から、見知らぬ男が少々困った表情を浮かべながら姿を現した。
「早苗、大げさだな、そんなに泣いて……」
ポンと、肩に手を置いた男。
早苗は即座にその手をはねのけ、助三郎の背後に逃げた。
「来るな! 変態!」
「なんだ? 助さんとはできても、俺とはイヤってか」
「黙れ!」
よくわからない会話をしている男と早苗。
「で、お前誰なんだよ?」
「由紀だ」
「は?」
由紀だと名乗る妙な色男。
助三郎は意味がわからず、ぽかんとしていた。
しかし、男がニヤッと笑って唇に手を当てるその仕草が妙に色っぽく、ムカッとなった。
「どうだ? 男前だろ? 記念に早苗の唇を頂いた」
助三郎がその意味を理解し、声を上げるまえに早苗が怒鳴った。
しかし、それは悲鳴に近いものだった。
「違う!」
「良いだろ減るもんじゃないし。助さんにしてもらってないんだろ?いくらでもしてやるよ」
早苗は畳に頭を擦り付け、泣きじゃくりながら必死に助三郎に向かって弁明し始めた。
「助三郎さま、早苗の姿ではなく、この姿でどうにか防ぎました! 許してください! 不義密通ではありません! 許してください! お願いします…… お願い……」
先ほどから異常なほど泣きじゃくる彼女を見て助三郎は気づいた。
自分の留守中に彼女は手籠めにされかけた。
護身は完璧だったが、心に少なからず傷を負ったのだと。
「おい、俺はただ冗談で……」
助三郎は男の胸ぐらをつかみ、睨みつけた。
「誰だか知らんがな、早苗に二度と近寄るな!」
そして早苗を連れて部屋へ戻った。
しかし、早苗はいまだに泣き続けている。
「許してください……」
早苗は手籠めにされかけた後、帰宅した夫に冷たくあしらわれた時の恐怖を思い出していた。
不義密通を夫に疑われ、冷たくされているのではと疑心暗鬼になっていたあの日々。
それ以降長く続いた辛い日々……
「早苗、大丈夫だ。俺は何にも疑ってない。お前は潔白だ」
「でも…… でも……」
「俺はお前を信じている。だから早苗、お前も俺を信じてくれ」
「助三郎さま……」
「落ち着いて。深呼吸して。戻れるか?」
早苗は言われたとおり、助三郎を信じ心を落ち着かせ元の姿に戻ろうとした。
すると、難なく戻れたのだった。
「ありがと、戻れ……」
最後まで言うことはできなかった。
助三郎に押し倒され、唇を奪われて話せなかった。
それは昨晩の優しい口づけとはまったく違う。少々強引で荒々しいもの。
いままで経験したことのないそれに驚いたが、拒みはしなかった。
「……あんな男今すぐ忘れろ。早苗の男は俺だけだ。誰にもお前を渡さない」
朝から濃密な時間を過ごした二人だったが、事には至らず。
不安なことがあるのに、できるわけがない。
問題は先ほどのあの男。
「あの男の詮議をしないとな。本当にあれは由紀さんなのか?」
「そうだと思う……」
もしも本当に由紀だとしたら、なぜ男になったのかも問いたださなければならない。
助三郎は立ちあがった。
「よし、確認してくる」
「わたしも行く」
早苗も後に従った。
「……大丈夫か?」
「うん。助三郎さまがいるから大丈夫」
助三郎は早苗を連れ、由紀の部屋へ向かった。
そこにはちゃんと先ほどの男がいた。
「早苗、さっきはすまなかった。ちっとやりすぎだな」
男はそう謝ったが、早苗は答えずに助三郎の背後にそっと隠れた。
警戒を緩めず、助三郎は尋問を始めた。
「勝手に話しかけるな。最初に名を名乗れ」
すると男は至ってまじめに答えた。
「元水戸藩奥方様付き女中取締役補佐、元紀州藩士八嶋与兵衛が妻、由紀にございます」
女が男になった。
理由はただ一つ。
「昨日の晩、酒以外に何か口にしたか?」
「『危険猛毒』って書いたやつを三粒ほど」
結論が出た。
男はまちがいなく由紀である。早苗の秘薬を使い、男になってしまったのだった。
しかし、なぜわざわざ口にしたのか? 『危険猛毒』と書いてあるものを……
「……由紀、なんで食べたの?」
「……決まってるだろ? 死にたくなったのさ」
さみしげに笑った彼女に、助三郎は恐る恐る聞いた。
「やっぱり、与兵衛さんとの話、聞いてたのか?」
「……そうだ。聞いちまったんだよ。この地獄耳でな」
早苗は昨晩大まかにその話を助三郎から聞いていた。
しかし、信じられなかった。
「与兵衛さんの心の中には、他の女がずっと居たんだ。だから、謝りにもこねぇし。迎えにもこねぇ。俺なんか、死んだ女の綺麗な思い出には敵いっこねぇんだよ。でもな、今さらってあんまりだよな…… 俺に子供まで産ませといてよ……」
「由紀……」
無理して笑っている彼女の気持が痛いほどわかった。
信じていた男の裏切り。それがどれほど辛いか。
しかも、由紀の場合は早苗より大きいに違いない。
波瀾万丈すぎる早苗と違って、由紀は結婚後今まで順風満帆だったのだ。
それがいきなり……
「毒食らって死のうと思ったのに。死ぬどころか、男になってやがる。でも、なんだって秘薬を毒薬って書いておいとくんだよ?」
由紀は話をそらした。
早苗はそれに気付いたが、そっとしておくことにした。
「ごめん。防犯用なの。毒って書いておけば普通の人も飲まないだろうし、どこかの忍びも手を出さないだろうから」
「ようわからんな。お前の考えは」
「ちょっと待ってて、解毒剤用意するから」
「簡単に元に戻れるのか…… だったら解毒剤は要らん」
「なんで?」
「しばらく男をやってみたい。それにな、俺好みのいい男だし。そこそこ良い身体だし」
早苗は若干あきれたが安心した。
やはり目の前の男は姿は男でも由紀である。
「じゃあ、戻りたくなったらすぐ言ってね。三つも飲んだなら、ほっといたら男のままで年越しちゃうから」
「わかった。よし、そうと決まれば、荷物まとめるかな」
いきなりのその言葉に早苗は驚いた。
作品名:凌霄花 《第四章 身をつくしても…》 作家名:喜世