天使への遺言
アンジェリーク。
私が、おまえという存在を初めて意識したのは、飛空都市の公園にある、女王陛下の像の前だ。
無論、謁見の間での顔合わせが事実上の初見であり、そのすぐ後に私の執務室でもうひとりの女王候補であるロザリアと共に訓辞を与えている。それでも、『アンジェリーク』という名のおまえを意識したのは、飛空都市での初日も暮れようという頃、他の民に混じって陛下の像の前で頭を垂れているおまえの姿を見たときだった。
この飛空都市のみならず、聖地を有する主星をはじめ女王陛下の統べる宇宙のそこかしこに陛下の像は在り、民の誰もが願い事を唱えるという。そのこと自体はごくごく自然な行為であり、別段とやかく言うつもりもない。けれど、私が妙に意識した――あるいは違和感を持った――のは、それが、その像たる存在にならんとする女王候補のおまえだったからかもしれない。
「感心なことだな。何を願う?」
おまえの横に立ち、像に向かい一礼した後声をかけると、おまえは私を見上げ、一瞬、虚を衝かれたようにして、その大きな目を見開いた。
「ええっと……ジュリアス……様?」
おまえが、ロザリアと違って女王候補としての教育を何一つ受けて来なかったことは、女王補佐官のディアから聞き及んでいる。それゆえ守護聖の名前を把握していないという事情は理解しているつもりだ。だから私は、私にしてはいたって鷹揚に頷いてみせた。
「覚えていてくれたとは、光栄だな」
……今から思えば嫌味になったかもしれぬがな。だがおまえは、そのような私の言葉を意にも介さず、それより先の問いに至極真面目な表情で答えた。
「気の毒な、あの大陸の人たちに女王陛下のご加護を」と。
だから、次に目を瞠ったのは、むしろ私のほうだった。
「何を愚かな……」
「愚かだなんて思いません、私は真剣なんです!」きっぱりとおまえは言い放つ。「本当にそう思っているから、女王陛下にお願いしていたんです……だって!」
他の民たちの手前、これ以上おまえを興奮させてはならないと思い、私は抑えた声音で問うた。
「……『だって』、何なのだ」
挑むような目で私を見上げた瞳は、私が声を低くしたことに伴い落ち着きを取り戻したのか、惑うように揺れた後伏せられた。そうして小さく息を吐くと、呟くように言う。
「……だって、私……星を育成するだなんて……いったい、どうすればいいのか……」
「それは」
この、守護聖の首座たる私の言葉を平気で遮って、おまえは続ける。
「何にも……知らないんですよ? ロザリアは学校でも特待生で、女王様や女王試験のことについて勉強済みなのに……私みたいな女王候補に導かれるだなんて、ほんっとにあの大陸の人たちが気の毒で、可哀相で」
なるほど、確かに真剣だった。
真剣であるがゆえに滑稽な気がして、私は失笑してしまった。それが心証を悪くしたのは否めない。おまえの眉が吊り上がる。
「あ、笑うなんて、ひど……」
今度は、私のほうが遮った。
「そうだな、おまえのような者が女王候補に選ばれるとはな」
ぐっ、とおまえは唇を噛み締め、再び目を伏せる。だが私は再び陛下の像へ目をやり、おまえの様子など預かり知らぬ振りをして続けた。
「とはいえ、そのようなおまえが選ばれたからには、何らかの意味があるのだろう」
ありていに申せば――それほど深く重い意味を込めて言ったわけではない。
「おまえという存在と、与えられた使命にも意味があるのではないか」
むしろそれは、謁見の間でおまえを見たとき、もう一人の女王候補が堂々としていたのに対しおまえがあまりにも落ち着きのない様子で居たことを苦々しく思っていたので、私が私自身に言い聞かせるような気持ちで言った――ただ、それだけのことだ。
だがそこまで言って、何の返事もないことを訝しく思い、おまえを見た私は、ぎょっとしてたじろいだ――真っ直ぐ私を見据えたおまえの瞳の、思いもよらぬ力強さに。
一方おまえは、そのまま穴が開くほど私を見つめ、二三度瞬きをしてから探るように言った。
「そ……そうです……か? 本当…に、そうお思い……ですか?」
まさか軽い気持ちで言ったと答える訳にもいかず、かと言って、それはまんざら――いや、もちろん――嘘であるはずもない。
何故なら。
「そうであろう? 何故なら、女王陛下をはじめ我らとて酔狂でおまえたちの試験に立ち会うほど暇ではないからな」
頷いてそう言ってみせるとおまえは、今までのことはいったい何だったのかと疑いたくなるほど一気に明るい表情になって、またもや私を吃驚させた。
「そ、そうですね! そうですよね! ここに私がいてもいいんですよね? 誤りだった、なんてこと……ないですよね!」
その、畳みかけるような言い方を可笑しく思いつつも、一方で少し気が咎めた。おまえはおまえなりに大きな不安を抱え、明らかに場違いと思われる所へ来てしまったと胸を痛めていたのだろう。だから私の、思いつきで言ったような言葉にすら、すがらずにはいられなかったのだろう。
ならば私も、それなりに真剣な態度で応えるべきだと思った。
「当たり前だ、おまえは女王候補として召されたのだから、ここにいて良いに決まっている。それに」
再び真剣な表情になって私の話を聞くおまえの様子に、思わず私は、こほん、と軽く咳払いをして間合いをとったうえで告げた。
「たとえば彼の大陸の民たちの如くおまえを……おまえだけを必要とする者がいるやもしれぬ」
そう言ったとたん、おまえときたら――まさに、破顔一笑。一切の屈託を払拭したかのような表情に、むしろ、そうさせた私のほうが息を呑んだ。
そういえば。
私は、これほどの笑顔というものを見たこと――否、向けられたことはなかった。いつも私の前に立つものは張り詰め、硬い表情でいる。あるいは先程までのおまえのように目を伏せているか、そっぽを向いているか――あえて笑みと言えば、『あの者』の薄笑いぐらいで――
「……ジュリアス様?」
「あ……ああ、何でもない」
どうもおまえと接していると調子が狂う。呆けていたところを見られて私は、少々きまりが悪くなった。もっとも、おまえはとくに何も思わなかったようだが。
再び私を真っ直ぐ見つめ、おまえは言った。
「ジュリアス様、私……女王試験、がんばります」
「そうだな、がんばることは悪くない」
私を見るその目には、もはや何の憂いも見られなかった。だから私も、その決意、心意気に報いてやりたくなった。
「私もできるかぎり協力しよう」
「わ! とても嬉しいです!」
ぱん、と胸の前で手を合わせて叫んだ。なんと、くるくると変わる表情。先程まで女王陛下の像に向かい、真剣に祈りを捧げていたかと思えば、今はもう、にこにこと笑って私を見ている。このような調子で有頂天になられても困るので、適度に抑えておくことにした。
「ただし、私が協力したところで、おまえが女王になれるかどうかは別だがな」
「そんなこと、私も思ってませんよ」
即答だった。
呆気にとられて、思わず私はおまえを見た。