レイニーブルー
春遠からじ
息を吸うたびに気道が凍りつくような寒さだった。雪の残る道はヒールには不安定で、走るにはなおさらだ。浅い息が喉に絡む。擦れ違う人々の訝しげな視線を感じながらも、桃子は足を止めなかった。一瞬助けを求めようかとも思ったが、ちらりと後ろを振り返り、それには及ばないだろうと判断する。きっともう諦めたのだろう。
角を曲がり、さっと路地に飛び込む。薄汚れたビールケースの影にしゃがみ込んで暫く耳を澄ませていたが、追い駆けてくる気配はもう無いようだった。ほっと息を吐くと目の前の空気が盛大に白く霞んだ。
「遅かったな」
病院特有の白一色の部屋に入るなり、聞き慣れた声が真横から聞こえた。ぎょっとして横を見るよりも早く肩に力が加えられた。
「ちょっと、重い! 退きなさいよ」
威勢良く上を向くと、響が表情を消して桃子を見下ろしていた。負けじと睨み返すと響は探るように目を細めた。
「顔が赤いし、身体が熱いな……走って来たのか」
「あんたには関係無い」
嫌な洞察力だ、と思いながら桃子はいつものように愛想無く答える。それよりも早く離れてくれないかと身体を捩っていると不意に腕を掴まれた。ぎくりと震えた。
「おい、何があった?」
桃子の動揺を響が見逃すはずも無く、顎を掴んで問い詰めてくる。答えるまでは逃がさないという明確な意思が伝わって来て、その傲岸不遜な態度に桃子はいらいらとしながら足を横に蹴り出すが、長い足がそれよりも早く絡めるようにして上から押さえ込んだ。
「あまり女が足を上げるもんじゃないな」
「あたしの勝手でしょ」
「じゃあこっちも勝手にしようか」
ふっと肩が軽くなり、代わりに無遠慮に太腿に触れる手があった。かっとなって腕を振り上げようとしたが、腕を壁に押さえつけられてそれも叶わなかった。最早満足に身動きできるような状況ではなく、ただ目の前の男を見据えることしかできない。
「で、何があった?」
「何も無いわよ」
「お前隠し事が出来る性質じゃないんだからいい加減にしろよ。ここに来る前男達に何をされた?」
こうやって物理的に拘束されるのは嫌だ。押さえつけられて何もできずにただ視線と言葉で不満を訴えるしかない。しかしそれは状況の打破には成り得ないのだ。無力さを痛感するしかなくて、激昂で神経が焼き切れそうだ。先程の男達もそうだった。無遠慮に腕を掴み、払い除けようとすると押さえつけ。目の前の男と違うのは下卑た笑いだけだ。
「何も無かったわよ。絡まれただけ。何も無かった。」
嘘ではない。道を歩いていたら声を掛けられて、追い払おうとしたところ腕を掴まれたから殴って、そうしたらベンチに押さえつけられた。だから逃げた。それだけだ。ただ桃子にとって男に絡まれるのはほぼ一年ぶりといっていいくらいだったから、多少驚いただけだ。
鬼の刻印をもった花嫁は、その魅力如何を問わず人の男を惹きつける。だから彼女たちの傍には自分の鬼か、あるいはその庇護翼たる鬼が守る。今の桃子にはそれらが無いから、人里に下りれば無防備なだけだ。自力で対処しなければならない。
鬼からは蔑まれる容貌であっても、こんな小さな花の印であっても、人の男は寄ってくるのだな、と半ば馬鹿馬鹿しい気分のまま、響を見上げる。
「それとも何かあった方があんたとしては良かった?」
嘲るように言うと、響は不愉快そうに唸り、拘束を解いた。唐突な解放に桃子がきょとんとして響を見上げると、響は顔を背けてベッドに向かった。
「お前……馬鹿か」
「はあ? バカはそっちでしょ。出会い頭に詰問してきて何怒ってんのよ」
「もういい……本当に何も無かったんだな?」
思いの外真剣な表情で問われ、今度は素直に頷く事ができた。
病室の窓から見る風景は室内と何ら違わない白で覆われていた。けれどそれは山際だからで、そうでないところはもう随分と雪も少なくなって大地の色が透けて見えていた。春も近い。
「そろそろ響も退院でしょ」
病院送りになった鬼の中でも響が最も重症だった。事件の首謀者であるのだから当然と言えば当然だ。それでも長骨を三本と多少の肋で済んだのは良かったのか悪かったのか、桃子には判断できない。自分もまた彼と同等の傷を負うべきだったとの自覚はある。無傷なのはひとえに、鬼に守られるべき存在である花嫁を華鬼が殴ることができなかったからだろう。あるいは――――。
あの事件の最期の入院患者は、ごろりと白いベッドに横たわって思案するように天井を見上げていた。鬼頭を再び狙うと言っていた彼を桃子は放置できない。かつてそれに加担して神無を傷付けたのはつい最近の話だ。その贖罪でもないが、響が華鬼を狙うのを阻みたい。神無を使うのはリスクが大きいと今回の件で悟ったらしい響は、最早神無には手をださないと言っているが、その言葉もどこまで信用できるか知れない。そうでなくとも華鬼が傷付けば神無はきっと悲しむだろう。彼女には今度こそ幸せになってほしかった。だから、桃子は響を出来る限り見張っておきたかった。
「ねえ、また鬼頭先輩を狙うって本気なの?」
「本気」
にやり、とさんざん見慣れた表情。既に何か策を講じているのだろうか。いやに楽しそうだ。不安で心がざわめく。桃子には響の事情は分からない。響は余すことなく桃子の事情を把握していたが、桃子は彼のことなど興味も無かったし、響もプライベートに首を突っ込むようなことを許しはしない。だから今も事情は分からないし、そこには抜き差しならぬ事情があるのかもしれないけれど、しかしだからといって新たなる凶行を見過ごしにはできなかった。
「学園に戻るの?」
「流石に今は無理だ」
それもそうだろうな、と思って頷く。鬼ヶ里は、と問おうとして口を噤む。響が鬼ヶ里に残るのであれば、そこを出た桃子にはどうしようもないが、そうでないのであればあるいは方策が無いわけでもないのかもしれない。しかしそこまで問う気にはなれなかった。
手持無沙汰に見舞いの果物籠から林檎を取り出す。皮を剥くのは得意ではなかったが、自分で食べるものだから多少歪でも良いだろうと無理に刃を進める。厚めに剥けばどうにかなるだろうと思ったがそうもいかず、あっというまに赤い皮が途切れてしまった。何だかうんざりしてきて手を止めると横合いからナイフを奪われた。
「見ててはらはらする」
するすると気色悪いぐらい滑らかにナイフを滑らせながら響が呟いた。相変わらず上から物を言う男だ。
「ねえ。それちょっと自分の腹に突き立てる気無い?」
「は?」
響は手を止める。
「ごめん。冗談」
「……あっそ。まあ、お前はそうしたくなるぐらいには俺のことを恨んでるだろうしな」
予定通りだった。呆気なく破壊する愚かで歪み切った嫉妬を前に、気に入った手駒は最後絶望の淵に追い落された。響の思惑は何の苦も無く成功を遂げたが、まだ満足はできない。それら響の行いに、桃子が殺意を覚えるのも無理からぬことだ。
「どうかな。自分の所為に変わりはないし――あんたを恨んでるような余裕はないの」
自責の念に押し潰されそうな表情で、それでも背中を伸ばして響を見据える桃子に、響は薄く笑った。