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レイニーブルー

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花甘想



調べ物をするから、と言い置いて早朝からラップトップパソコンの前に張り付いていた響は時折マウスを揺する以外にはほとんど身動きもせずにディスプレイを見詰めていた。
日も随分と高くなってそろそろ昼という頃になってやって顔を上げた響の横にマグカップが置かれた。湯気とともに微かに甘い香りが立ち上る。
「お疲れ様」
響はちょっと肩を竦めて、別に、と呟いた。
響の向かいに座ると桃子は自分のマグカップに口をつけた。牛乳と紅茶の甘い匂いが鼻を擽る。秋はミルクティーに限る、と桃子がしみじみと啜っていると響もカップに手に取った。
「甘いな」
「これぐらいのほうが秋らしくて美味しいの」
「体型を気にする割に、糖分の摂取に関しては自分に甘いよな」
ミルクティーを啜っていた桃子の表情が不機嫌そうに歪んだ。机の下で桃子の足が響の脛を蹴りあげる。
「喧嘩売ってるの?」
桃子が朗らかに笑っているのも悪くは無いが、響にとって最も彼女らしいと感じるのは桃子が眦を釣り上げているときだった。だからだろう。時折思い出したように彼女のコンプレックスを弄んでしまうのは。
「いいや? 甘いのが好きなら好きで詰まらない見栄だとかに拘らずに、心赴くまま快楽に身を任せたほうが幸せだろうって提案」
「なんかあんたが言うといかがわしい」
「そう?」
ふ、とその視線が止まる。
マグカップを支えるために肘をついた腕は、ドルマンスリーブが滑り落ちて肌がのぞいている。その白い手首。点々と皮膚が隆起しているところがあった。
響の視線を感じて桃子は怪訝そうな様子を見せたが、その視線の先をたどって納得しように喉の奥で笑った。歯型に盛り上がった皮膚を指で触れる。もう痛くも痒くもない。牙を向けた選定委員から神無を守るため咄嗟に伸ばした手に、鬼の歯は骨まで達した。幸いにも太い血管も神経もさほど傷ついていなかったから完治したあとは日常生活んまったく支障はなかった。処置も適切だったため皮膚が変色したりすることはなかったが、傷の痕は皮膚が薄く盛り上がってしまった。
「残ったな」
「まあ、ね。でもそれでよかったと思う」
夏場でも上着を着て手首を隠しているくせに、桃子はそんな風に言う。
「神無にあんなことをしたんだから、当然の酬い」
これでも足りないかな、と自嘲気味に呟いた桃子の言葉に響は苛立ちを覚えた。あの時。雪の降る夜だった。鬼達の呻きと破壊の音が響く血生臭い部屋に冷気を伴って滑りこんできたナカは桃子の腕に喰らいついた。ごり、と歯が骨に当たる音がして、大量の血が流れ出た。あの時の血の甘い香りに感じた戦慄。それを桃子は知らないからそんなことを言える。桃子は自分自身を軽んじる傾向があった。それは彼女の成育過程によるものだろうが、しかし身を損なうようなことを平気で口にすることが響にとっては腹立たしかった。
「でも、あの時は守ってくれてありがとう」
響がナカを吹き飛ばさなければあのまま腕を持っていかれたかもしれない。だから桃子は響に感謝していたが、響は憎まれこそすれ感謝される筋合いはないと、渋面を浮かべた。
「恨みごとじゃなくて良いのか?」
「響が神無に対してやったことは許せないけど、あたしに関することだったらそれほど恨んでなんかいない。あれはあたしが馬鹿だっただけだから――――むしろ、どこかで響に感謝しているのかもしれない。響はあたしが被害者でいることを許してくれなかった」
自己憐憫と羨望とに喘いでいた桃子は様々なものに目を塞いでいた。それを暴力的なまでに取り払ったのは響だった。お前は加害者でしかないのだと嘲笑った。
「……お前は気付いていたさ。被害者だと思っていたら俺に対して共犯だなんて単語は使わなかった」
ちょっと躊躇うような響の言葉はどこか優しい。その言葉にすこし救われたような気分になりながら桃子は微笑んだ。
「そっか……そうなのかな――――でも響に感謝はしてることは変わらない」
そうやって桃子自身が気付かなかったような桃子の心理に気付いて、突き付けてくれる。だから桃子は感謝を撤回する気は無かったが、それを受けて響は苦く笑うばかりだった。
「お前は甘いな」
他人に甘く自分に厳しい。それが桃子の本質なのだろう。神無を傷つけようとしていたときも、神無よりも桃子本人の方がよほど傷付いていた。すべてが終わった今は響に恨みを向けることも無く、ひたすらに己を責めたてる。
腕を伸ばして桃子を引き寄せ、薄く引き攣れた白い手首に唇を寄せた。歯を軽く立てると手首が魚のように撥ねた。ナカを思い出したのかと思うと面白くなく、そのまま傷跡に舌を這わせ、甘噛みする。
皮膚の下でとくとくと脈打つものがあるのを感じる。白い皮膚の下には赤い血が通っている。雪に閉ざされた鬼ヶ里で香った血を思い起こした。
甘い、甘い香りがする。鬼は花嫁に引き寄せられる。甘い花に誘われるのだ。


作品名:レイニーブルー 作家名:萱野