レイニーブルー
輪廻列車
やり直せるとしたらどんな人生を歩む?
過去の後悔をどうする?
「え?」
夕暮れ時の世界が赤く染まる時間。桃子は振り返ったが夕日を背にした男の顔は逆光になって見えなかった。肩越しに見える夕日が人工的な薔薇色をしているのが印象的だった。
「だから、人生をやり直せるとしたらお前はどこから始める?」
夕風が金木犀の香りを運んでくる。粘膜を焼くような甘ったるい香り。胸がひりひりした。何を馬鹿なことを問うのだと一笑に付すことが出来ない。
タタン、タタン、と奇妙なリズムを刻む音が近付いてくる。何か恐ろしいものが来ると思うのだが、逃げようにも男に腕を掴まれて無理だった。
「あの事件の夜か? それとも秋の屋上? 神無に出会った九月、自分の鬼に捨てられた初夏、庇護翼が迎えにきた十六の誕生日、初めて男に襲われかけた十二の夜、この世に誕生したその日――それとも鬼に選ばれた母親の胎の中か? ほら、早く答えないと」
にい、と端正な顔が笑みを浮かべる。掴まれた腕が震えて仕方が無い。寒い。怖い。いつもの強気はどこに消えてしまったのだろうか。手を振り払えない。駆けだすことが出来ない。夕日がとろりと毒々しく輝く。ききいい、と金属音が耳に刺さる。
「仕方が無いな。お前が選べないなら俺が選んでやるよ。そう――これは俺にも関係のない話ではないし」
腕を掴んでいた手から力が抜け、代わりに指を絡められて握り込まれた。
風が強く吹く。髪が乱れて視界を遮るその狭間に背後から影が走った。きいいいい、と金属を軋ませながら静かに止まったのは古ぼけたオレンジ色の列車だった。
気の抜けた音と共に扉が開く。一両編成の小さな車体のどこにも乗客はいない。歪んだガラスを透かして水面のように揺らぐ太陽光が車内に満ちている。とろりと融けてしまいそうな色を讃えた玩具みたいに小さな電車。男は躊躇いも無くそれに乗り込んだ――――桃子の手を引いたまま。
タタン、タタン、と子供がステップを踏んでいるような不安定なリズムに合わせて床が揺れる。
車窓からは落日に照り輝く赤く染まった空しか見えなかった。燃え盛る色にちりちりとした焦燥を覚えた。
「あの雪の日にしよう」
「いつ?」
雪の日が示すものを薄々分かってはいたが問いかけずにはいられない。ぐるぐると胸で渦巻く思いは恐れを帯びている。
「神無が攫われた日。お前が神無を裏切った日。そして俺がお前を裏切った日」
歌うような声は甘い。人を陥れる声だ。
「お前は未練があるんだろう? やり直せるものならやり直したいだろう?」
男は桃子の頬に手を添えた。それに懐かしさを覚えて桃子は目を見張った。
「神無を傷付けたくないと思っているんだろう?」
不思議と素直な気持ちで頷いた。桃子の裏切りを知って涙を浮かべた神無。あの時涙に触れた指は和解した今でも罪悪感に痺れる。
「傷付けずに済む?」
「お前次第かな」
列車の速度が急速に落ちる。
「ああ、そろそろだな」
降りるぞ、と手を引かれた。
「どこ?」
「神無を裏切った日」
窓の外に白い校舎が見える。雪に埋もれた懐かしい学び舎。ぞっとして桃子は男の手を払いのけようとするが矢張り手は開放されなかった。桃子は男を睨め付けた。
「神無を傷つけたくないんじゃない。そうじゃなくて、それよりも、神無を裏切りたくない」
「九月に戻りたいってことか?」
「六月に戻ったって生まれた時からやり直したって何も変わらない。どうしたってあたしは家族との軋轢に辛くなるし、捨てられることもどうしようもない。でも神無を裏切らずにすむんなら、そこからやり直したい。十二月のあの日じゃあ遅すぎる。だってあたしは神無と会ったその日からあの子を裏切ってた」
どうして神無の信頼を素直に受け止めることが出来なかったんだろう。あんな事件を経た今でも高校の時と変わらない信頼を込めた視線を向ける神無に罪悪感を感じる日もあった。
どうしてあの日神無を監禁した部屋で彼女が響に肌を暴かれながら人形のような目で自殺しようとしたのを目の当たりにしながらも、何もしなかったんだろう。桃子も響の命令によって押さえつけられていたけれど、鬼達は神無に注目していてその手から抜け出すのなんて簡単だった。何もできなかったんじゃない、何もしなかったのだと桃子は悔恨に唇を噛む。神無はあの時、桃子の裏切りと響からの暴行に絶望して舌を噛もうとしていた。桃子はあの時どんなに無理でも神無を守らなければならなかった。あんな絶望した目をさせてはいけなかった。
「あたしの後悔は九月。神無と会ったあの日から始まってる」
声が後悔に染まって震える。男は桃子の強い眼差しを受けて満足げに笑った。
「駄目だな。そうしたらお前は俺と会わなくなってしまう。いや、敵対するかな。何にせよお前の望みは俺にとってはあんまり好ましくないな――――それに、もう遅い」
ボックスシートの向かいに座った男は表面だけの嘘臭い笑みとともに髪を掻き上げた。さらさらと色素の薄い髪が薄暮の色を帯びる。甘い色だ。窓の向こうでは急速に日が沈み東の空が陰る。秋の日は釣瓶落とし。すとんと落ちるように夜がやってくる。あの惨劇の夜が。
きいいい、と再び金属が擦れる耳障りな音が響いてゆっくりと列車は後者の前で止まった。
抵抗する桃子を引き摺る様に男は列車を降りた。桃子が雪を踏むのと同時に列車はぴしゃりと扉を閉じて不安定な音を立てながら過ぎ去ってしまう。風が吹く。手を伸ばしても届かなかった。
「さあ、始まるぞ」
聞き厭きた男の声。
不気味なまでに静まり返った校舎を前に、桃子はきつく目を閉じた。これから訪れるものを知っている。どうすれば良いかなんてわからない。
「響、あんたを恨むわ」
「それで良い」
響は笑った。
神無に覆い被さる男の背を最後に扉は無情な音を立てて閉まった。追い出された桃子は扉を叩くがそれが開かれることは無かった。
焦燥に指が震える。
神無を助けなければならない。身勝手な誤解で神無を傷付けてしまった。
「誰か……」
誰に助けを求めれば良いのかと焦る心で考える。教師は駄目だ。警察は遠すぎる。鬼頭や庇護翼の来訪はそれこそ響が望むところだ。
窓の外は雪で一面真っ白だった。無垢な色は神無のようだ。けれどそれは今全ての音を吸い取って悪意に満ちて広がる。
あのどこか下には響によって閉じ込められた鬼が何も知らずに今もいるのだろう。
「国一……」
彼ならば、と駆けだした。
鬼頭の襲来をただ待っていることは出来なかった。響は既に鬼頭に備えている。それでは駄目なのだ。神無を守るためには鬼頭や庇護翼では足りない。
預かっていた鍵束が重たげな金属音を響かせた。