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ディストーテッド・ロマンス

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雨と囁き



雨音で目が覚めた。
緩く拘束する腕から抜け出て、同居人が目を覚まさないように静かにカーテンを開くと、案の定暗い灰色の世界が広がっていた。地を穿つように激しく降りしきる。桃子はひっそりと息を吐き、キッチンに向かった。響が用意した快適できれいなキッチンは、さほど料理好きでなかった桃子でも気分良く立つ気になった。それ以前のアパートでもそうであったように、このマンションに引っ越してからも料理は桃子が担当していた。動くのは嫌いじゃない。響に料理を任せるよりは自分がやったほうが気分的にも、精神衛生上も良かった。それでもこの日はこの快適なキッチンに立つのがひどく億劫だった。
コーヒー豆を挽くと良い香りが漂い、多少気が紛れた。コーヒーをドリップしながらボウルに卵を割り入れ、生クリームを投入する。ぼんやりと掻き混ぜていると、背後で扉が開く音がした。
「おはよう」
「ああ」
まともに挨拶を返さない響に、桃子は微かに苛立ちを感じが、口を尖らせるに留めた。
熱したフライパンに溶き卵を入れ、やさしく掻き混ぜる。響が背後で調理を覗き込んでいるのを感じながら、多少緊張しながら手を動かした。このあと何を作る予定だったっけ、と桃子は視線を彷徨わせる。まな板に置いたサニーレタスとタッパーを見て、ああ、作り置いたラタトゥイユとレタスを添えるだけか、と思い出した。簡単な仕事だ。何が楽しいのか、背後でじっと桃子の手元を覗き込んでいる響に手伝わせようかと口を開きかけたが、言葉が出なかった。僅かな躊躇。
この部屋を買ったのは響だ。こんな高級マンションの家賃は桃子には払えない。響は家賃の代わりに家事で十分だと言ったし、桃子もそれで承諾した。家事が得手なわけではない。それでも人並みにはこなすことが出来たし、ここに住むようになってからは随分と技術も向上したのではないかと思う。家事程度でこの快適な部屋に住めるのなら安いものだ、と思っていた。響では居住性を保ち、快適性の向上に努めるなど無理なことは目に見えていたから、家賃と家事はギブアンドテイクだと桃子は考えていた。だから、家事を手伝わせることに躊躇いがあった。
色々とあって恋人関係に陥ったが、頼りたくないという桃子の拘りが時にこうやって響に対しての遠慮を生む。いつもではない。しかし不意に表れた。
結局桃子がオムレツを作り終えてからレタスと、その上にラタトゥイユを添えた。パンとコーヒーをダイニングテーブルに運ぼうとすると、響が無言で手を伸ばしてきた。
「手伝わなくて大丈夫!」
有無を言わせない強い口調に響は瞠目したが、桃子も自分の声のきつさに驚いていた。奇妙な沈黙に耐えかね、桃子は無理矢理笑みを浮かべた。
「今日は、私が全部準備したい。座って待ってて?」
不承不承といったように響は頷き、キッチンを出た。ダイニングに座りながらも、響はカウンター越しに桃子を見詰めていた。半対面式の弊害だな、と桃子は嘆息しつつ、皿を運んだ。
働き先のパン工房で貰って来たパン・ド・カンパーニュは相変わらず美味しく、店長に勧められたコーヒー豆も良い香りがする。ふんわりとしたオムレツは我ながら美しく仕上がり、ラタトゥイユもきれいな色味と程よい酸味を添えている。デザートとして出したサクランボも初夏らしく瑞々しい。それなりに朝食として整っている。それでも気分は晴れず、ぼんやりとズッキーニをつつきながら響を見ると、視線が合った。
「口に合った?」
「美味いよ」
「良かった」
ざああ、と激しい雨音が微かに聞こえる。
「酷い雨だな。今日も仕事はあるのか?」
「あるに決まってるでしょ」
桃子が呆れたように言うと、響はコーヒーカップに口を付けながら窓の外を見た。
「送っていく」
響の声は硬かった。桃子の様子を心配していることが伺え、桃子は溜息を押し殺しながら明るい口調につとめた。
「いつも送ってくれるくせに――ありがとう」
桃子が普段のように軽口めいて呟き、笑みを浮かべると、響は視線を和らげた。少し安心したようにも見える響の表情に、桃子は微かに胸が痛んだ。

流石の雨に、いつもは賑わっているパン工房も閑散としていた。
「なぎさちゃんと桃子ちゃん、今日は早めに上がって良いよ」
なかなか減らない棚のパンを整頓しているなぎさを、桃子がレジから眺めていると、店長が奥から出てきた。
「え、良いんですか?」
トングを片手になぎさが身を起こすと、店長は穏和そうな顔を窓に向けた。雨足は弱まる気配が無く、日暮れ前で明るいはずの時間だったが、外は暗雲立ち込め、妙に暗かった。
「今日はもうそれほどお客さん来ないだろうし、自分一人で大丈夫だから。雨も酷いし、明るい内に帰った方が良いよ」
桃子は眉を顰めた。胸の奥に重苦しいものが閊えているようで、何か嫌だった。朝からそんな調子だったが、バイトに出てからは多少軽減されていた。それが再びよみがえる。残りますよ、との桃子の声はなぎさの明るい声に掻き消された。
「ありがとうございます! じゃあ、お言葉に甘えて!」
「うん。気をつけて帰ってね」
なぎさにぐいぐいと手首を掴まれて、桃子は慌ただしく更衣室に入った。仕方が無い、と桃子はなぎさと共に着替え始めた。
「響くん呼ばなくて大丈夫?」
はっとなって顔を上げると渚が笑っていた。毎日桃子の送り迎えをし、時には店内に居座る響の存在を、なぎさは好意的に捉えているようだ。以前迷惑じゃないかと問うた桃子に対し、響くんのおかげで客足も増えて、むしろありがたいぐらいだよ、と会員に向けてメールを作成しながら笑っていた。
「……響、今日は用事があるらしいから」
嘘だった。何の意図も無い、他愛の無い嘘だ。ただ響に会いたくなかった。それを悟られまいと、桃子はいつもどおりに屈託の無い表情を作った。
「そっか。じゃあ気をつけて帰ってね」
「うん、お疲れさまでした」
お疲れ様ー、との渚の声を背に、扉を閉める。レジで手持無沙汰そうに佇む店長に会釈すると、店長はいつもより大きめのビニールを桃子に差し出した。売れ残ったパンは店員が持って帰って良いことになっていたが、今日はもうそれほど掃けないと踏んでいるのだろう。
「お疲れ様。気をつけてね」
「はい。ありがとうございます。お言葉に甘えて失礼しますね、お疲れさまでした」
裏口から出て、傘を差した。鈍色の雨空を背景に、ぱっと珊瑚色の傘が花開いた。傘を打つ雨音がやけにうるさい。緩やかに傾斜した道を水が走り、ちょっとした川になっていた。こうなってはレインパンプスも無意味で、中に雨が入り込む。激しい雨に、傘を握る手に振動が絶え間なく与えられた。雨にスカートが濡れ、足に張り付いたのが不快だった。最早傘は頭部を守るだけで、ほとんど意味をなしていなかった。傘から勢いよく水が滑り落ちる。
「傘の意味が無いわね」
傘と雨がつくる轟音に耐えかね、桃子は傘を閉じた。一つ不快要素が減る。
前を見るとマンションの影が滲む視界の中でも認められた。ぐっと胸の奥が苦しくなる。
「帰りたくないな」
呟いて、自嘲した。
他に帰る場所などどこにもないのに。頼るところなどとこにもないのに。