氷花の指輪
「うーんと、次は『屈辱の岩礁』ダンジョン?」
マスターが地図と依頼リストを見ながら確認する。
ダンジョンエリアの入り口付近にあるベンチに腰掛けた私たち。
優しい滝の音と心地よい風。
「はい。そこには、『セイレーン』と呼ばれる化け物が多数生息しており、
その美しい歌声に魅せられ、惑わされたマガタ操縦士が
何人も被害にあっていると言います。」
「……セイレーン……。」
私が説明すると、マスターが悲しげにつぶやき、
それに、彼女の肩のあたりで漂っていたバラクルの大きな笑い声が重なる。
(わはは!かのサイレントセイレーン様が化け物セイレーンを倒すのかね?
傑作じゃないか。)
「バラクル!」
マスターが慌てたようにバラクルを制する。
(あっ……。す、すまん……。
王子には何も話してないんだっけか…。)
「サイレントセイレーン…様?」
私の疑問に、マスターは大きなため息で答えた。
「バラクル…。『何も話していないこと』を話してしまったら
何も話していないことにならないのよ……。
……サイレントセイレーンは、私の…昔のあだ名?みたいなものよ。
気にしないで。」
マスターが目も合わせずにそっけなく言う。
こういう言い方をするときほど、すごく重要なことなんだともう知っている。
すごく重要なことほど、私には話してくれないことももう知っている。
よっぽど、不満そうな顔をしていたのかもしれない。
マスターが付け足してくれた。
「ごめんね。ニコラス。
本当に大したことじゃないの。
私ちょっと目力っていうのかな、強いほうでしょう?
私に睨まれると、呪われるとか惑わされるとかそういう噂があってね。
それで、歌声無きセイレーンで、サイレントセイレーンなんだって。」
「そうなんですか…。それは……。」
――― 私の眠っていた5年の間のことですか…。
口から出かかった質問が、押し戻された。
マスターからの霊圧が高まり、何もしゃべれなくなった。
これ以上、何も話す気はない、何も聞くな、ということだろう。
詰まった息を吐きだし、
先ほどまで心地よかったはずの風に、私の冷や汗を攫わせる。
近づいたと思ったら、離れていく。
唇の温かさを知っても、心の温度を知ることは許されない。
疑問を持つことも、共に苦しむことも許されない。
あなたは本当に私のことを愛してくれているのでしょうか。
あなたは本当に私と共に生きたいと思ってくれているのでしょうか。
そして、私のあなたへの気持ちは……。
(……。)
マスターの周りを所在無げに漂っている、濃紺の影に視線を向ける。
「……それにしても、バラクル王は何でも知っているんですね。
私の方がマスターと一緒に過ごした時間は長いのに、
ちょっと悔しいです。」
(ん?んん……。
儂は姫さんの召喚霊である前に、姫さんの父親代わりだからな!)
「父親って……。
バラクルは、降霊憑依型だから、
私の記憶や経験を共有しなくてはいけない部分があるの。
その影響で、少々知りすぎているだけよ。
……さあ、行きましょう。」
――― 『何も話していないこと』を話してしまったら
何も話していないことにならない。
その通りだ。
何も話さなければ、そこに何かがあるなんて知らずに済むのに、
何も話していないと言われたら、そこに何かがあると知ってしまう。
隠された何かが……。