氷花の指輪
彼女と契約し、しばらくたったが、
こうして落ち着いて二人きりになることはあまりなかった。
もちろんニコラスが近くにいても、彼に聞こえないように
二人だけで話すことは可能だが、アリスがそれを望まないだろうと思った。
だから、ずっと聞きたかったことを、今、聞く。
「二回目の降霊の時、王子を消そうとしたことを怒っているか?」
彼女は短剣をなでる手を止め、
ゆっくり首を振った。
「……ううん。怒ってない。
あなたが来てくれた時、怖かったけど本当に嬉しかった。
あの時、私はあなたに意識を乗っ取られてなんていない。
あなたは私に力を貸してくれただけ。
あれが私の本当の姿、……本心なんだよ。
全てを殺したいと思っているのも、ニコラスを消したいと思っているのも…。」
愛するが故、守りたいが故、その存在を消す。
誰の手にも届かないところへ。
それができないことも分かっていて、そう願う。
そして、5年前から引きずっていることを、今やっと、聞く。
「……最初の降霊の時、お前を消さなかったことを恨んでいるか?」
「……ううん。最初は恨んでいたかもしれないけど、今はもう恨んでない。
あなたはずっと一緒に苦しんでくれていたんでしょう?
ニコラスに力をもらったように、バラクルには勇気をもらった。
それに、今、こうしてそばにいてくれて、
辛いことも、大きな笑い声で吹き飛ばしてくれる。
そして、そんな昔のことを不安そうに聞いてくれるあなただから……。
だから……恨んでない。」
彼女の感情が、憑依した自分には手に取るように伝わってくる。
そのはずなのに、彼女の今や氷となった霊魂は肝心なところが揺らぎ、霞む。
絶対に拭えない不安が残る。
恐怖の大王が、たった一人の娘の心に恐怖する。
「……儂を信じているか?」
口をついて出た3つ目の質問。
愚かな質問だと、我ながら思った。
彼女を裏切っていることは、裏切ることになるのは、
自分が一番よくわかっているのに。
「あなたが、私の召喚霊としてそばにいるだけでなく、
監視目的か何かで、私たちと一緒にいることは知っている。
たぶん、それ以上の役目を持っているだろうことも分かっている。
それが誰の命令なのかも……。」
彼女はあえて口に出さなかったのだろう。
その命令を出している人物が、
彼女が死霊術の教えを受けた『先生』であることを。
彼女は、手元にあった青く輝く短剣の柄を両手で持ち、
その切っ先を自分の喉元に向け、目を閉じる。
「あなたは、今、私の身体を動かせる。
ここで、少し力を入れるだけで、私を殺せる。
逆に、私が少し力を入れれば死ねるのに、あなたはそれを止められる。」
焦って、彼女の手をすぐに降ろさせる。
冗談でも、こういうのは苦手だ…。
「ふふ。ありがとう。
あなたは絶対、約束の日までは、私の味方でいてくれる。
……それを信じているよ。」
「そうか……。」
いい答えだ。救われる気分がした。
約束の日まで……。
彼女と彼女の王子様の間の、真の契約が果たされる日まで。
「約束の日か…。月夜の晩に二人で雪が降るのを見ること、だったか。
……もちそうか?お前の身体は、もう……。」
そう、彼女の体調不良は、一時的なものではない。
5年前、元老院の地下牢に囚われの身になった後、
打たれ、斬られ、剥かれ、削られ、焼かれ…。
薬品を浴びせられ、毒を飲まされ、さらにその小さな身体を辱められ…。
そんな毎日を送ってきた結果だ。
元老院の死霊術師たちは、
彼女の持つ強大な力、ニコラス王子の霊魂を欲した。
そのために彼女を壊そうとしたのだ。
殺すのではなく壊そうとした。その方がよっぽど残酷だった。
拷問など、精神毒を使用した幻覚によるもので事足りるはずだったのに、
彼女の精神毒への異常なほどの耐性が、
彼女を物理的、肉体的に苦しめることになってしまった。
まだ死霊術師でもなく、正しく契約もしていなかった霊魂を
彼女は手放すことができなかった。
もし手放すすべを知っていたとしても、彼女は手放さなかっただろう。
彼女の精神は2年もの間、壊れなかったのだ。
外傷は癒えたが、傷跡はその身体に惨たらしく残り、
身体の内側の機能が、徹底的に弱ってしまった。
彼女の身体はいつ瓦解してもおかしくない。
薬を使えば、痛みを和らげることも、
症状の進行を一時的にでも食い止めることもできるかもしれない。
だが、彼女はそれを望まなかった。
この痛みは、ニコラスを守り切った勲章だと、
症状の進行は、ニコラスとの約束を早く果たすための砂時計なのだと
そう誇らしげに語った。
だが、砂時計の砂は容赦なく落ち続ける。
約束を果たす前に、落ち切ってしまったら、
彼女のこれまでが、全て水の泡になってしまうのに。
それでも彼女は、薬も、そして愛する人の心も望まなかった。
「王様がそんな心配そうな声、出しちゃだめだよ。
私は大丈夫。その日までは何が何でも大丈夫なの。」
「……そうだな。お前は、大丈夫だ。」
5年間、見守り続けたんだ。
彼女の人生に幸あれ、なんて大層なことは祈っていない。
ただただ、彼女のたったひとつの儚い望みを叶えんがため……。
分かっている。
ニコラスを消して彼女を自由にしたいと思っているのは自分だ。
あの出会いの日に彼女を消しておけばよかったと思っているのは自分だ。
自分を信じられないのは、自分自身だ。
天上を仰ぐ、動いたのは彼女の頭。
共に天井を仰ぐ。
目指す目標は一緒だ。
目的は全く違う。違ってしまった。
あの暗い牢から出たその時に、
絆で結ばれた主人と契約で結ばれた主人との正反対の想いで、
反発しあうように引き裂かれていった。
一方は愛の在る死を望んだ。一方は愛ゆえの生の絶望を望んだ。
そして、自分はまた何も選んでいない。
「バラクル…。
私は大丈夫だよ。うん…だから、あなたはあなたの正しい道を進んでね。」
ここで、正しい道という。
正しいと思う道ではなく、進みたいと思う道でもなく。
「敵わないな、お前には。
まぁ、これも5年前から知っているけどな。」
「そうでしょう?お父さん♪」
今度は、楽しそうに微笑んだ。
お父さんか。嬉しい響きではないか。父親など知らないだろうに…。
「……儂は、こんな出来のいい娘を持った覚えはないぞ?」
「あら、お父さんに似たんじゃないかな?ふふふ。」
くすくすと笑う彼女の手から、青く光る短剣をそっと離させた。