氷花の指輪
2.春の目覚め
長い夢を見ていた。
彼女に抱かれて見る夢は、
王子として生きた自分の人生の走馬燈のようだったが、
辛く苦しい日々が、優しく甘く上書きされた幻だった。
欲望も憎しみも、すべて許され、満たされて終わる一生…。
だが、いや、だからこそ、言い知れない切なさを感じた。
現実ではないと痛いほどわかってしまうから。
そして、その傷を癒してくれている彼女を苦しめているのだろうから。
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風が草原を渡っていくようなさわやかな音。
鳥のさえずりと暖かい日差し。
洞窟暮らしの長かった自分には全く縁のなかった感覚だが、
それは、とても懐かしいような、心地よさを感じさせた。
柔らかいベッドにふかふかの枕。
何百年も忘れていた感触。
――― 目覚めなさい。ニコラス。
遠くから覚醒を促す声。
そして、その先に見えた光。
心地よさから離れたくないという思いに、光の向こうへの好奇心が打ち勝った時。
世界が始まった。
「おはよう。ニコラス。」
聞き覚えのない、だが、とても優しい声。
ずっと閉じていた瞳が光を恐れ、目がうっすらとしか開けられない。
それでも手を伸ばし、自分を覗き込む顔に、頬に触れてみる。
それだけで全身が幸福に包まれるようだ。
「マスター…?」
まだはっきりしない頭でも、はっきりとわかるこの霊魂の波動。
「ニコラス、私のことが分かる?」
不安そうな声が聞こえてくる。
「はい…。
…初めてお会いした時とお姿が異なるようですが、
間違いなく、あなたは私のマスターです。マスターの霊魂を感じます。
長い夢の中でずっと私を癒してくれていた…。」
頬に添えた手に、彼女の手が重なり指輪に触れる。
あの時の興奮がよみがえる。
「起こすのにとても時間がかかってしまったの。…5年くらい…かな…。
待たせてしまってごめんなさい。」
目が慣れてきた。
不安げな女性の顔は、確かに、
うっすらとあの時の少女の面影を残していたが、全く見違えた。
10代前半くらいの少女が、17、8歳くらいになっているのだろうか。
あの時感じた神秘的な美しさはそのままに、憂いを含む目元、色香を纏う唇…。
ただ決定的に印象を変えているのが、金の絹糸のごとく輝く髪と、
透き通るような白い肌だった。
ぼーっと見とれながら、流れ落ちるなめらかな金髪に指を絡めてみる。
不思議そうに見上げているのに気付いて、彼女は緊張したように尋ねた。
「変かな…?」
首をかしげながら問う、その反応に、
あの日あの夜、約束を交わした少女が重なる。
彼女は何も変わっていない。
「いいえ。時を飛び越えてしまったようで混乱していました。
そのお姿も、とてもよくお似合いです。」
小さな花のつぼみがほころぶように、彼女は微笑んだ。
そういえば、この体勢…。
――― ひ、ひざまくら!
気付いた瞬間、跳ね起きた。
「すみません。マスター!そ、そのご無礼を!」
彼女は驚いて目をまん丸くさせていたが、
ややあって、恥ずかしげに頬を染め目をそらした。
「あっ、その初めての降霊召喚だから、
失敗して体調とかよくないところがあるといけないから、
横になってもらった方がいいかと…思って…。」
今更気が付いた。自分の手を足を身体全体を見渡す。
――― 身体が…ある。
「マスター、あの。私、身体がある、ますか…?」
変な疑問文になってしまった。
「えっ?」
「えって…。えっ?」
………………。
「っふふふ。あははは。ニコラスってば慌てすぎ!
死霊術で降霊召喚しているから、霊魂だけの状態と違って
普通に実体として身体があるのよ。ほらっ!」
たまらず吹き出した彼女はそう言って、ニコラスの首に抱きついた。
びっくりした身体が、急に動かし方を忘れてしまったように硬直した。
「おはよう!ニコラス!」
彼女はもう一度、目覚めのあいさつをした。
「…おはようございます。マスター。」
やっと動くようになった両腕を
彼女の背に回していいものかどうか、
それが目覚めて最初の、最大の悩みだった。