無限回廊
もう10月だというのに、日中はまだまだ暑く、夏服と秋服の人々が入り交じり行き交う雑踏を、彼女は特段の目的もなく歩いていた。
ショーウィンドーに視線を送りつつゆっくり歩いていると、綺麗な顔立ちの青年がブランドショップの前でうずくまっていた。
見るともなしに通り過ぎようとしたところで青年が顔を上げ、彼女に近寄って来た。
「おねーさん、僕と結婚しませんかぁ?」
彼女は驚いて、思わず立ち止まる。
青年は、泣いていた。グスグスとすすり泣きながら、爽やかなサックスのオックスフォードシャツの胸ポケットから小さな箱を取り出した。
黒地に刻まれた金のロゴは、見たことのある有名ブランドのもの。
青年は彼女の手を取るとその箱を乗せ、相変わらずの涙声で言った。
「ね? 僕と結婚しない?」
「……は!? え? いや、あの、困ります!」
彼女はようやく我に返ると、暑さと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、慌てて箱を押し返した。
しばらく押し問答を繰り返していると、ピタリと青年の動きが止まった。
青年の目にはみるみると涙が溜まり、やがて堪えきれなくなったようにうずくまると泣き崩れた。
どうしたらいいかもわからず、彼女がオロオロしていると遠くから、雑踏でも響く音を立ててこちらに向かって走ってくる人影があった。
「馬鹿! お前、何やってるんだよ!! すみません、これ、俺のなんです」
走り寄ってきた、長髪長身の精悍な顔の青年は、彼女の手から箱をひょいと受け取ると蓋を開け、無限を意味するその指輪を、実に自然に自身の薬指に着け、うずくまって泣きじゃくる青年に語りかけた。
「いいか? 俺達は結婚は出来ないが、誰も別れるとは言ってないし、指輪を受け取らないとも言ってないぞ。俺はお前のこと、好きだよ」
よく見ると屈んで語りかける長髪の青年も、涙ぐんでいるようだった。
その光景を見つめていた彼女にも込み上げる何かがあり、気が付けばボロボロと涙が溢れていた。
「!! あ、あの、しししし幸せになってください!!!!」
彼女は溢れる涙を拭いながら、ドップラー現象気味に声をかけると、猛ダッシュでその場を走り去った。
サッカーに疎い彼女は知らなかった。目の前で熱烈なやり取りを繰り広げていた青年達の、泣き崩れていた短髪の青年が、普段はクリムゾンレッドのユニフォームに身を包み、フィールドを駆け回る反町一樹という選手であり、駆け寄ってきた長髪の青年が、普段はネイビーブルーのユニフォームに身を包み、ゴールを守る若島津健という選手であることを。
「ほら、立てよ」
まだグスグスと鼻をすすりながら、それでも少しだけ恨みのこもった眼差しで若島津を睨み上げると、反町は不貞腐れながら差し出された手を取って立ち上がり、ユニフォームとよく似た色のデニムの尻を両手で払うと、物も言わずに歩き出した。
置き去りにされそうになった若島津が慌てて追いかける。
無言のまま肩を並べて歩いていると、ちらほらと気付いたような視線を向ける、すれ違う人々の視線がやけに痛く突き刺さるが、反町は意に介した様子もない。
「なあ、反町」
居たたまれなくなって若島津が声を掛ける。
「何が気に食わないのか、言ってもらわないとわからないんだが」
ピタリ、と反町の歩みが止まった。困ったような若島津の顔をジッと見つめ、絞るように声を出す。
「本当に、わからない?」
そもそもの発端は、行きつけのショップの店員から聞いた、新作の情報だった。
シンプルながら個性を放つその指輪は、大きな若島津の手にもよく似合う気がした。
迷うことなく2つ予約し、発売を心待ちにしていた。
発売と同時に受け取りに行った箱の1つを開け、指輪を嵌めると、ためつすがめつそれを眺め、自身のチームのリカバリーと、彼のオフが合致する2日後のその日に思いを馳せた。
リカバリーの日、足に不調を抱える反町は、軽いストレッチの後でスポーツドクターの診断と治療を受け、実質のオフとなった。
事情が事情なだけに手放しで喜べるオフではなかったが、それでも愛する者とゆっくり会えるのは嬉しかったし、その上今日はサプライズが待っていた。
いやが上にも高まるテンションを抑えつつ、反町は地元を後に、若島津の住む街へと愛車を走らせた。
若島津の住むマンションの来客用駐車場に車を滑り込ませると、駐車場からの直通エレベーターで通い慣れた部屋に向かい、合鍵で勝手に入る。
「健ちゃーん、ただいまー。いるー?」
「ああ、お帰り。足は大丈夫なのか?」
「んー、しばらくは体幹トレーニングと治療に専念だってさ」
反町は、あまりその話はしたくないとばかりに素っ気なく返す。若島津もそんな反町に気付き、小さく溜め息を吐くと話題を変えた。
「飯食いに行こう。少し前に、わりと美味い懐石の店が出来たんだ。予約してあるんだが、行かないか?」
「行く」
即答に笑みを浮かべると、若島津は反町の肩を叩いて玄関に向かった。
折角のオフだし、昼酒といこう、と、互いの車ではなくタクシーをつかまえる。
町家風情の総合施設に入るその店はこじんまりとしていて、白い暖簾が新しさと行き届いた手入れを物語っていた。
若島津が予約した1つしかない個室で向かい合って盃を酌み交わす。いかにも若島津が好きそうな、辛口の純米吟醸酒を一気に空け、反町は息を吐いた。
「ん~、美味い! 昼から酒なんて贅沢だぁね~」
若島津程には左党ではないが、美味しい物は何でも好きな反町の、満足したような声を聞いて、若島津の口元が自然と緩む。
食事は、季節の野菜を使った先付に始まり、鮮魚に力を入れていると評判のお造里、宝石箱のような彩りの椀物、様々な食感や見た目が楽しめる焼八寸、やさしく繊細に仕上げた炊き合わせや出汁巻玉子、土鍋で炊かれたふっくらとしたご飯に自家製のちりめん山椒、ご飯や香の物とも相性抜群の赤出汁、〆の水菓子に至るまで、丁寧に気が配られた心安らぐ料理だった。
今が旬の、程好く熟れた次郎柿の最後の1つを食べ終わると、2人は満足そうに笑みを交わした。
「ご馳走さまでした! 美味かったー!」
反町はそう言うと、茶を啜る若島津に、持ってきていた袋を差し出した。
「これは?」
「ん。プレゼント。開けてみてよ」
ニコニコと見つめる反町に促され、小さな手提げから箱を取り出す。
一瞬、ほんの一瞬だけ、若島津の眉根が寄ったのを反町は見逃さず、前のめりについた頬杖と笑みがかき消える。
若島津は反町の表情には気付かず、リボンを解き、箱の蓋を開けた。そして、少しの間を置いて、そっと溜め息を吐いた。
「お前……これ……ペアとかじゃないだろうな?」
いつものように明るく「え? 何で?」とか「何言ってるの? 当たり前じゃん」という言葉が返ってくると思っていた。
が、反町は若島津が言い終わるか終わらないかのタイミングで箱を奪い取り、わざとバンと大きな音を立ててテーブルに1万円札を置くと無言で個室を出て行った。
「え!? お、おい! 反町!?」
後を追いたくともそうも出来ず、若島津は呆然と立ち尽くしていた。
そして、先の騒動を経て、現在に至る。
ショーウィンドーに視線を送りつつゆっくり歩いていると、綺麗な顔立ちの青年がブランドショップの前でうずくまっていた。
見るともなしに通り過ぎようとしたところで青年が顔を上げ、彼女に近寄って来た。
「おねーさん、僕と結婚しませんかぁ?」
彼女は驚いて、思わず立ち止まる。
青年は、泣いていた。グスグスとすすり泣きながら、爽やかなサックスのオックスフォードシャツの胸ポケットから小さな箱を取り出した。
黒地に刻まれた金のロゴは、見たことのある有名ブランドのもの。
青年は彼女の手を取るとその箱を乗せ、相変わらずの涙声で言った。
「ね? 僕と結婚しない?」
「……は!? え? いや、あの、困ります!」
彼女はようやく我に返ると、暑さと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、慌てて箱を押し返した。
しばらく押し問答を繰り返していると、ピタリと青年の動きが止まった。
青年の目にはみるみると涙が溜まり、やがて堪えきれなくなったようにうずくまると泣き崩れた。
どうしたらいいかもわからず、彼女がオロオロしていると遠くから、雑踏でも響く音を立ててこちらに向かって走ってくる人影があった。
「馬鹿! お前、何やってるんだよ!! すみません、これ、俺のなんです」
走り寄ってきた、長髪長身の精悍な顔の青年は、彼女の手から箱をひょいと受け取ると蓋を開け、無限を意味するその指輪を、実に自然に自身の薬指に着け、うずくまって泣きじゃくる青年に語りかけた。
「いいか? 俺達は結婚は出来ないが、誰も別れるとは言ってないし、指輪を受け取らないとも言ってないぞ。俺はお前のこと、好きだよ」
よく見ると屈んで語りかける長髪の青年も、涙ぐんでいるようだった。
その光景を見つめていた彼女にも込み上げる何かがあり、気が付けばボロボロと涙が溢れていた。
「!! あ、あの、しししし幸せになってください!!!!」
彼女は溢れる涙を拭いながら、ドップラー現象気味に声をかけると、猛ダッシュでその場を走り去った。
サッカーに疎い彼女は知らなかった。目の前で熱烈なやり取りを繰り広げていた青年達の、泣き崩れていた短髪の青年が、普段はクリムゾンレッドのユニフォームに身を包み、フィールドを駆け回る反町一樹という選手であり、駆け寄ってきた長髪の青年が、普段はネイビーブルーのユニフォームに身を包み、ゴールを守る若島津健という選手であることを。
「ほら、立てよ」
まだグスグスと鼻をすすりながら、それでも少しだけ恨みのこもった眼差しで若島津を睨み上げると、反町は不貞腐れながら差し出された手を取って立ち上がり、ユニフォームとよく似た色のデニムの尻を両手で払うと、物も言わずに歩き出した。
置き去りにされそうになった若島津が慌てて追いかける。
無言のまま肩を並べて歩いていると、ちらほらと気付いたような視線を向ける、すれ違う人々の視線がやけに痛く突き刺さるが、反町は意に介した様子もない。
「なあ、反町」
居たたまれなくなって若島津が声を掛ける。
「何が気に食わないのか、言ってもらわないとわからないんだが」
ピタリ、と反町の歩みが止まった。困ったような若島津の顔をジッと見つめ、絞るように声を出す。
「本当に、わからない?」
そもそもの発端は、行きつけのショップの店員から聞いた、新作の情報だった。
シンプルながら個性を放つその指輪は、大きな若島津の手にもよく似合う気がした。
迷うことなく2つ予約し、発売を心待ちにしていた。
発売と同時に受け取りに行った箱の1つを開け、指輪を嵌めると、ためつすがめつそれを眺め、自身のチームのリカバリーと、彼のオフが合致する2日後のその日に思いを馳せた。
リカバリーの日、足に不調を抱える反町は、軽いストレッチの後でスポーツドクターの診断と治療を受け、実質のオフとなった。
事情が事情なだけに手放しで喜べるオフではなかったが、それでも愛する者とゆっくり会えるのは嬉しかったし、その上今日はサプライズが待っていた。
いやが上にも高まるテンションを抑えつつ、反町は地元を後に、若島津の住む街へと愛車を走らせた。
若島津の住むマンションの来客用駐車場に車を滑り込ませると、駐車場からの直通エレベーターで通い慣れた部屋に向かい、合鍵で勝手に入る。
「健ちゃーん、ただいまー。いるー?」
「ああ、お帰り。足は大丈夫なのか?」
「んー、しばらくは体幹トレーニングと治療に専念だってさ」
反町は、あまりその話はしたくないとばかりに素っ気なく返す。若島津もそんな反町に気付き、小さく溜め息を吐くと話題を変えた。
「飯食いに行こう。少し前に、わりと美味い懐石の店が出来たんだ。予約してあるんだが、行かないか?」
「行く」
即答に笑みを浮かべると、若島津は反町の肩を叩いて玄関に向かった。
折角のオフだし、昼酒といこう、と、互いの車ではなくタクシーをつかまえる。
町家風情の総合施設に入るその店はこじんまりとしていて、白い暖簾が新しさと行き届いた手入れを物語っていた。
若島津が予約した1つしかない個室で向かい合って盃を酌み交わす。いかにも若島津が好きそうな、辛口の純米吟醸酒を一気に空け、反町は息を吐いた。
「ん~、美味い! 昼から酒なんて贅沢だぁね~」
若島津程には左党ではないが、美味しい物は何でも好きな反町の、満足したような声を聞いて、若島津の口元が自然と緩む。
食事は、季節の野菜を使った先付に始まり、鮮魚に力を入れていると評判のお造里、宝石箱のような彩りの椀物、様々な食感や見た目が楽しめる焼八寸、やさしく繊細に仕上げた炊き合わせや出汁巻玉子、土鍋で炊かれたふっくらとしたご飯に自家製のちりめん山椒、ご飯や香の物とも相性抜群の赤出汁、〆の水菓子に至るまで、丁寧に気が配られた心安らぐ料理だった。
今が旬の、程好く熟れた次郎柿の最後の1つを食べ終わると、2人は満足そうに笑みを交わした。
「ご馳走さまでした! 美味かったー!」
反町はそう言うと、茶を啜る若島津に、持ってきていた袋を差し出した。
「これは?」
「ん。プレゼント。開けてみてよ」
ニコニコと見つめる反町に促され、小さな手提げから箱を取り出す。
一瞬、ほんの一瞬だけ、若島津の眉根が寄ったのを反町は見逃さず、前のめりについた頬杖と笑みがかき消える。
若島津は反町の表情には気付かず、リボンを解き、箱の蓋を開けた。そして、少しの間を置いて、そっと溜め息を吐いた。
「お前……これ……ペアとかじゃないだろうな?」
いつものように明るく「え? 何で?」とか「何言ってるの? 当たり前じゃん」という言葉が返ってくると思っていた。
が、反町は若島津が言い終わるか終わらないかのタイミングで箱を奪い取り、わざとバンと大きな音を立ててテーブルに1万円札を置くと無言で個室を出て行った。
「え!? お、おい! 反町!?」
後を追いたくともそうも出来ず、若島津は呆然と立ち尽くしていた。
そして、先の騒動を経て、現在に至る。