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雲のように風のように

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…いずれの御時にか、とある国に錬金術を嗜む(たしなむ)后がいたそうな――



 …なんでも、天子様の使いだとかいう連中がやってきて立て札をつきたてて言うことには。
「…お后?」
 ああ、と面倒そうにばっちゃんは頷いた。
「前の天子様がおっちんじまったからねぇ」
「ふーん…」
 粗末な夕飯を食べながら、エドは何となく頷く。そういえばそんなことがあったような。
「次の天子様はなんでも…えーと、ほら、あんたらもはまってるアレ。錬金術?あれにのめりこんでるとかで。姫を入内させるのに二の足踏んでる貴族が多いって話さ。ま、枯木も山の賑わいってね、いつの御世も宮女はとにかく数だけでもかき集められるもんだがね」
「錬金術…」
 エドの、食べる手が止まった。
 ばっちゃんも手を止める。そして、友人の忘れ形見である子を見つめる。
「…エド?」
「ばっちゃん」
 エドは真剣な面持ちで、とんでもないことを聞いてきた。
「お后って三食昼寝つきってホント?」
 ――立て札の前で大人達が言っていたことを思い出しながら、エドは尋ねた。
「…」
 何と言ったものかと思っていると、エドが皿を置いて立ち上がった。
 ばっちゃんと、そしてエドの弟と幼馴染がいくらか不安そうにそんな彼を見守る。
「そしたらさ」
「ダメに決まってるだろ」
「まだ何も言ってねーよ」
「聞かなくてもわかるよ、できればわかりたくないんだが」
 呆れ切ってばっちゃんが言えば、エドは何を思ったかニッと笑う。
「なんだ、わかってるならいーや。つまりさ、次の天子様のお后になれたら、三食昼寝に文献と触媒と実験し放題付きってことだよな?オレ、お后になる!」
「………」
 ばっちゃんは深く溜息をついた。
「何馬鹿なこと言ってんだい、アンタは」
「馬鹿じゃねーもん!…食い扶持だって減るじゃんか」
 プイとエドはそっぽを向く。
 ばっちゃんは苦笑して、
「…あんたみたいなチビのガリ、受付で突っ返されるよ」
 と言う。脇で黙って聞いていた弟のアルは、それ以前の問題じゃないのかな、と思ったが。
「チビってゆーな!」
 いや、だから、そうじゃなく…、アルはまたしてもそう思ったが、結局口には出せなかった。
「…豆に心配してもらうなんざ、あたしもヤキが回ったかねえ」
「豆じゃねえ!」
 やれやれ、とばっちゃんは笑って、そっぽを向いてしまったエドの頭をかき回した。


 普段は起こしてもなかなか起きないエドの寝床から、ごそごそ音がするので、隣で寝ていたアルは目を覚ましてしまう。
「…兄さん?」
 エドは視線だけ弟に向けた。しかし、し、と人差し指を立てる。
 アルは黙って頷き、ごろんと寝返りを打つと、じぃっとエドを見上げる。
「…まさか本気なの?」
 そっと問い掛ければ、「兄」は迷いなく頷く。そんなエドに、アルは溜息をひとつ。
「あのねー…ひとつだけ確認したいんだけど…」
「…なんだよ」
 エドもとうとう声を出した。
「お后様って、女の人しかなれないと思うんだけど。兄さんいつから女の子になったの」
 呆れきった弟の声音に、くすりとエドは笑った。
「バカ、オレは男だよ」
「じゃあ…」
 いささかむっとして、アルの声に険がこもる。が。
「アル」
 勢い込む弟を、兄が静かに制止する。そして言うのだ。
「後宮に美女三千人、だ。アル」
「…?」
 古来の後宮のたとえ話を持ち出され、アルは眉根を寄せる。
「ああいうもんはな、根回しとか後見とかが大事なんだって。ということはつまり?」
 怪訝そうな顔をしている弟に、エドは飛び切りの秘密を見せるように微笑んだ。
「つまり、それがなけりゃ、逆に一生だって皇帝の伽なんざ回ってこないってわけだ。そうすると、必然的にだな」
「…必然的に?」
 まだアルの顔は疑いに満ち満ちている。
「房にこもってりゃ人とも会わない。夜ともなりゃ、皇帝はお忙しい盛り、だろ? …ほら、書架に入り浸る時間がここで出来る」
「……」
 アルは何と答えたものかと黙り込む。
「…そんなにうまく行くものかなぁ…」
 とにかく、そう言うのが精一杯だった。
 そうこうしている間に、エドは支度が終わったらしい。ヨシ、と小さく言って寝床に腰を降ろした。
「…アル」
 そして、唐突に真面目な顔をして、厳かに弟を呼ぶのだった。いきなりの真剣な声に、アルも起き上がり背筋を伸ばす。
「ばっちゃんとウィンリィを頼む」
「…にいさん…」
 ニッとエドは笑った。
「文献読み尽くしてほとぼりが冷めた頃にさ、そうだなー、宦官のフリでもして出てくっからさ」
 そこで、エドの笑顔が一瞬ひび割れた。
「よろしく、な」
 しかしそれは一瞬現れただけで消えてしまった。
 とにかく、アルには頷くことしか出来なかった。のまれてしまって。

 こうして、兄は夜明け前にひっそりと出て行った。
 まだ性差のはっきりしない小柄な体は、どんな少女より華奢で頼りないように、アルには見えた。
 ――エドが十一歳の、早春のことだった。



 ――長い丹塗りの隧道を通れば、これは膣を象徴しているのだと言われた。エドはそれへ無感動に小さく頷いた。
 体内の一器官、子宮と繋がる部分だと。結局それ以上でも以下でもない。
 教義的な知識なら小さな身に有り余るほど。だが所詮それまで。まして感慨、野心など抱こうべくもない。

 ここがおまえの、と分け与えられたのは三人部屋で、どちらかといえばこれこそ大問題だった。
 同室になった女性達、片方はさほどエドと年が変わらないようである。何となく落ち着きがなさそうだ。彼女はエミリーと言うらしい。
 もう一人は対象的に物静かであるが、年が離れているからかもしれない。そのせいか、大人びていてはっきりと「女性」を感じさせた。
 彼女の名はマリアといった。


 部屋割の時にはいささかもめたりもしたが、后妃教育が始まると妙な連帯感が生まれるから不思議な物だった。
 一月もそんな暮らしをしていれば、「房にこもっていれば…」なんて言っていたのも忘れ、エドもすっかり他の女性達と顔なじみになっていた。
 幸い誰もエドが男であることには気付いていないらしい。そして、そんなある日の晩。
「…?」
 回廊で何か物音がした気がして、エドはこそりと房を抜け出した。
 エミリーは寝ていたが、マリアは小さく声をかけてきた。それにはなんでもないと答え、そろりと外へ踏み出す。
 白い爪先が夜陰に白さを増した。
「…? おかしいな…」
 猫でもいるのかと(まさかここは警備厳しい後宮だから賊ではあるまい)あたりを見回したが、何の気配もなかった。
 エドはもう一度首を捻り、房へ戻ろうと踵を返しかけた。しかし。
「あ…」
 瞬間、満天の星空が階から視界に入り、思わず足を止めてしまう。
 そのまま、誘われるように回廊の手すりに駆け寄り、思い切ってよじ登ってみた。そうすると、空が少し近くなる。
「……」
 星宿を観るのは特に好きでも何でもなかったが、一通りのことは学んでいた。…弟と並んで。
「…アル、どうしてっかな」
 するりと名前が出てきて、柱に寄りかかり思い出すのは残してきた大事な家族のこと。不覚にも胸が詰まった。
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ