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雲のように風のように

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 しかし、もぞ、と動いた途端、手すりの上というバランスの悪い場所ゆえに体が支えを失ってずれ落ちた。
「…!」
 落ちる――!
 そう思った。…しかし、瞑った目よりもずっと固いはずの床には、ついぞ落ちることがなく。
「…?」
 誰かの手が、エドの身体ごと腕に抱き留めていることに、遅ればせながら気付いた。
 恐る恐る目を開けば、そこには、今まで后妃教育では見かけたことがない(エドは記憶力には自信がある)顔だった。
 なるほど、目許の涼やかな、美形と言ってもよい人物だ。
「…大丈夫か?」
 だが、からかい混じりに聞いてくる声も。
 エドの背を支えている手の確かさも。
「……男…?」
 小さな、小さな声で困惑したまま呟けば、件の人物は面白そうに笑った。
 黒い髪と同じく、黒い瞳を少し細くして。
「…あんた…」
 男、は。
 面白そうに目を細めたが、自分の手の中にひっくり返ってきた小さな背中を片手で抱き支え、もう片手をエドの腰に伸ばした。
 すとん。
 エドはそっと床に降ろされる。
「…君みたいな小さい子が…」
 小さい。
 それはエドにとっては禁句である。瞬間暴れ出そうとした体は、しかしそうする前に押さえ込まれていた。
「…!」
 エドの口を固く抑える男は、悪戯っぽく空いた手の人差し指を口の前で立てた。
「教授が君のことを言っていた。君が『エド』だね?」
 男、というか、青年は、楽しそうに目を細めて確認してきた。
 怪訝そうな目をする子供を見て何を思ったか、彼は続けざまに笑う。
「…君、錬金術の特別講習を希望したそうじゃないか」
 子供の、夜目にも鮮やかな、稀な黄金の瞳が見開かれるのを青年は見つめている。手は放して貰えなかったが、無体を働こうというものではないようだ。
 それに、あまり近づいてエドもまた男であることを知られては厄介だ。子供だとて容赦はしてもらえまい。
 ――それに、やはり、後宮に男がいるのはおかしい。
 宦官という可能性もあったが、彼はとてもそんな風には見えない。彼ははっきりと、男なのだと感じさせる空気を纏っていた。
 警戒心も露に、それでも頷く子供にいよいよ彼は機嫌をよくしたようで、「静かにしていておくれ」と言いながらも手を放してくれた。
「…あんた?」
「――ロイだ」
「…。ロイ?」
「今は、ただそう呼べばいい。怪しく見えるだろうが――」
 彼は楽しそうに、気安い調子で片目を瞑って見せた。
「心配することはない。私は紳士だから」
「…………」
 エドはうさんくさそうにそんな青年、ロイを見上げた。
「…。教授って…」
「ああ。君たちの教育係の、あの人さ」
「………」
 いよいよもってこの人物は怪しい。
 后妃教育を担当する人物と知己だなどと。
「新皇帝が錬金術に傾倒している、という噂がある」
「…。らしいね」
 エドは肩を竦めた。ばっちゃんがそう言っていた、と今さらのように思った。
「だからか、后妃候補として集められた娘達の間で錬金術が大流行していると聞いた。…君も、そういう理由で?」
 問われ、エドは一瞬きょとんとした顔をした。
 その「思いもよらないことを言われた」風情がありありと漂う丸い顔を見て、おや、と青年が眉を上げる。
 やがてしばしの沈黙の後、エドは小さく噴出した。
「…?」
 ロイは物問いたげな目を向ける。
「あんたさ」
「?」
「…あー…見せたほうが早いか」
 に、とエドは笑った。思わずそれに見惚れたロイだったが、エドがパン、と軽く手を合わせてからはそれどころではなかった。
「…!?」
 合わせた手。
 そこに生まれる火花。
 エドは、その手で床に触れた。
「――…!!」
 細かな溝からかけらが綻んでいた床が、瞬時に建造当初のように美しく修復されていた。
 青年が息を飲むのが伝わって、エドはにっと笑った。
「…こういうこと」
「君…エド…君は」
「オ…わたし、が興味を持ってるのは、こっち。皇帝の御心、ってやつじゃない」
 本当にそう思っているのがわかる調子で気負いなく言って、エドは笑う。
「でも、次の皇帝陛下が錬金術を重く見てるっていう噂だったからさ。ここにくれば、なんか色々、知らないこととかわかるんじゃないかなって」
「……」
 ロイはそれを聞くと、何かを考え込むように俯いた。
「ま、そういうこと。お后だったらさ、こんだけ女の子もいるんだし、まあ適当な人がなるんじゃない」
 エドは本当にその問題には感心がないようだった。
 すると、黙って聞いて、見ていたロイが愉快そうに笑うのだ。
「…ロイ?」
「なるほど。そういうことだったわけだ」
 彼は本当に楽しそうな顔をしていた。
「…?」
「エド」
「?」
「明後日もこの時間にここに出て来られるかい?」
「…??? 寝てなきゃ出てこれなくないけど」
 エドは呆れた顔を見せる。
「あんた、バカ? ここ後宮だろう」
 そう言ってやったときのロイと着たら、本当に驚いた顔をしてエドを見返してきた。
 それで思ったのだ、ああこいつはバカだ、と。
 後宮に男が入ったなどと知れたら、とんでもないことだ。そんなことはエドだって知っているのに。
 しかしロイときたら、背中を折るようにして笑い出した。
「あ。ああ…そうだね」
 くつくつと笑われ、今一感じが悪い。
 …彼自身は、どこか人懐こくて憎めない感じがするのだが。しかしそれがまた曲者だろう。
「…ありがとう」
「?!」
「心配してくれて」
「…あ…あんたほんとにバカだろう」
 何でオレが会ったばかりのあんたの心配をしてやらなくちゃならないんだ。
 エドは興奮のため頬に朱を上らせてそう言い募った。
「し」
 しかし、大きくなった声を封じようというのか、彼は人差し指でエドの唇に触れてきた。
「…とりあえず、それは心配無用だ。明後日の夜、ここで。この時間に」
「えっ…」
 ロイはにっこりと笑った。食えない笑みだ。
 ――と、不意に人の気配を感じてエドは振り向く。
「…え?」
 いつの間にか、ひとりの背の高い女性がエドの背後に立っていた。
「…リザ、さん」
 それは、后妃候補の中でも一際目立つ美女。
 ただ非常に寡黙な為、エドもその声を聞いた事がない。
「…」
 彼女は青年に咎めるような目つきを見せた。
「…すいません」
 と、今度は青年が悪びれた様子もなく謝って見せるではないか。
「…???」
 エドはわけがわからず二人の顔を見比べる。
 と、ロイが気付いてエドの頭をくしゃ、と撫でる。
「また」
 そして短く、低くそう囁くと、回廊の向こうに音もなく立ち去る。
 呆然とそれを見送れば、はぁ、と小さな溜息。
 リザだった。
「あ…あの…」
 美女だけに、喋らず騒がず馴れ合わずの彼女はとても敷居の高い人物だ。
「――危ない目に遭いたくなかったら」
「…は?」
「近づかないことね。彼には」
 その声には特にどんな感情もこめられていなかった。
 それだけに、より一層冷えて響く。
「え…」
 リザは回廊の先の闇に一瞬視線を送って。それから、幾分和らげた声でこう告げた。
「…もう寝なさい。冷えてきたわ」
 背筋をぴんと伸ばして颯爽と彼女が去るのを、エドはやはり呆然と見送るしかなかった。
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ