その後
それは途切れたままで二度と戻らないだろう、そう思っていたのだが。
開かぬ筈であった目が開き、意識せずに息を吸う、五感が戻る。だから……
ああ、死んだのだ俺は。
そう思い、自らのこの直感に間違いのない事を悟ったので、そのまま……倒れた時と同じ、自分にしては酷く惨めな屈辱の姿勢のままで、ただぼんやりと両の目だけを動かし辺りを見回す。
(俺はあの男に倒された、敗れ、斃れたのだ。)
あの男……死んだ今となっても自分には、理解する事も分かり得る事もない、あの男。
希望や未来、仲間、輝きや夢と言った我等青の闇の者達が最も侮蔑し嫌う形なき……陽のような赤の力を一身に負った小さく幼き者に。
(……)
褐色の肌の男……バラクーダはただ、目を開きぼんやりとしていた。
未だ倒れたままである。これではあまりにも惨め。生前の自分であればそう思い直ぐに立ち上がっただろう。この姿を先代の奴……父が見たとすれば愚か者、いつまで地に伏しているのかと一喝するであろう。
だが、バラクーダはどうにも立ち上がる気にはなれなかった。
赤の者との戦いを続け、体は死しても心が疲弊しているのだろうか。
そうではない。ここに……三途かどうかは分からぬが、肉体は既に死してしかし仮物の五感は寧ろ冴えている。
動かなければ、立ち上がり配下達に指示を出し己が気を奮い立たせ……
生前のバラクーダを無理にでも前へ前へと動かしていたもの達は今はもうなくなっている。
何もないのだ。ふと、どうでもいい、と言う生前には多忙の為に考えもつかなかった思いが浮かび上り、気怠さに捕らわれる。
鼓舞し、自らを突き動かしていたのか、動かされていたのか……生前から継いだ地位も、それに従い頭を垂れていた配下兵士達はいない。
気を抜けない要因となっていた奴等二人……ある程度の力は持っていたアスは邪魔となったので消し紅蓮は既に斃れた。
……あれが。
唯一人、この身を畏怖も敵意も憎悪も邪気も持たず、情を込めた声で呼んでいた者。
(……)
その声はもう二度と聞く事は出来ないだろう。自分には聞ける筈がない。
(もう……良い。)
自分もいい加減諦めろ、忘れてしまえと。そう思う。
先代より永きに渡り戦いを続け青き力を持つ我等と争い続けた者達。
その忌むべき者達、奴等自体がもうここにはいない。
先刻、いや……いつだろうか。最早分からない。
赤の頂点に立つ男と戦い奴は勝利し、自分はひたすらに惨めな事だが敗れ無様に屍を晒し、斃れたのだから。
長かったのか短かったのか……最早どうでも良い事であったが、その過程で数多の生命を……生命だけではない。
生物どころでなく、両の指では数え切れぬ国……そこそこの大きさのものから国をただ自称する小さなものまで、根こそぎ滅ぼした。
得れば拠点となる重要な都市や抵抗する組織等は尚更の事で、生物の命ごときは呼吸をするように当然に、自らの生きた過程の中で奪い続けて来た。
兵士達の士気を下げない為にも、バラクーダは先代に倣い、攻め入った国々には自分達が治めるべき箇所以外は基本的には好きにさせていた。
先代から続く彼等の軍の強さと……金となるものは何でも略奪の限りを尽くす、その様はどこへ行っても恐怖の対象と語り草となっていた。
こうして、今はもうどうでも良くなった生前に、人々の住まう場所を奪い命を断ち、火を放ち根絶やしとし……野に晒された兵の屍の山も打ち壊された家屋の横に転がる老人の死体の焼ける臭いも、雑兵に拐かされ人買いに売られ泣き叫ぶ女子供の悲鳴も、そう言ったもの共を生み出した根本の原因の内半分はこの身にあっただろう。
他者、特に弱き者の生命などにはこれと言った特別な思いなどはないが。
因果応報。死したこの身がゆく先はまず間違いなく地獄、血河を渡りて……
そして恐らく、積極的に生命を断った数は自分とは比ぶべきもないが、あれも、いずれ直ぐに自分がゆくべき場所……光も何もない地獄へいるだろう。
すでに先にいるだろうか……同じ場所へ。
もう聞く術もないその声が、永訣した事をまるで嘘であったかのように脳裏を過ぎる。
あれが居る。
確信などない一方的なその思いを抱いた途端、バラクーダの気怠さが失せ、手足の末端までに何かが流れ行くように熱が生じる。
そして心が動く。
彼を思い急速にはっきりと意志を持ち始める自らの心をバラクーダはただ愚かだと自嘲した。
(……幾度だっただろうか。生前に……体を数え切れぬ程繋げ、重ねていた。しかし俺はあれに所謂、愛を謳う事などは一度も無かった。けして思い故に交わりのあった仲ではなかったと思う。この身に、我等の身に情などは不要な物であって、それは誰にでも分かる事だ。あれだって、幾ら俺を慕っていたとしても心のどこかではそれを分かっていた筈だ。)
だから枷となるしがらみなど全て捨て去ってしまえと、そう思い虚空を睨むが、心を捨てろと思えば思う程、脳裏に焼き付くように浮かぶものは彼の者の姿。
……絶世の。実兄の自分がそう言っても差し支えないだろう、またとなく秀でた容貌と、同じ色をした髪。自分を呼ぶ、甘えるような声。
それらが絡むように心に縛り付き、バラクーダを乱す。
(死して今なおお前は情を以て俺を捉えようとするか。)
俺はお前を手に掛け糧とし、しかし敗れた。
勝利したのであれば良い。目に見えぬ、だが俺の一部となったお前と共に生き続ける事が出来たのだから。
お前を手に掛けた上で敗れ、斃れたのだから、もうお前とは決別しなければならない。
しがらみを、情を全て絶ち切らなければと思い、捨て去り、決別せよとバラクーダは自らに言い聞かせる。
見据える空は、灰。何とも形容し難いどろりとした彼岸の、死後の世界のその色とそれと同じく渦巻くような悶々とした思いのまま、しかし体は明らかに意志を持ち、動こうとしている。
ここを離れ歩きさまよえば、あれはどこかにいるのだろうかと。
どれ位の間であっただろうか。
赤の男に負けた、ああ負けた。だから俺は起き上がる気も失せていた。
しかし俺は元は多くの配下を持ちそれらを束ねていた者だ。
いくら死したとは言え、その身が地に転がり続けていたままでは阿呆のようであり、先に逝った奴等が見れば我等の主はと嘆き、情けなく思うだろう。
それでは示しが付かないし、魂となった今も毅然としていなければならない。
だから立ち上がらなければと、それを理由としてバラクーダは体を起こし、ゆっくりと歩き始めた。
濁った空の下、バラクーダはゆっくりと歩く。
流石に死の世界……悪行を重ねた罪深き者達が行き付く場所の入口である。
枯木一つ存在しない。ただ道行く所に大小の岩らしき物が無数、乾き切った地から生えているのみである。
(……)
歩き始めはバラクーダも辺りに気を配ったものである。
先ず、遥か遠い過去にこの手で弑逆した先代がやっては来ないか。それを考えた。
……奴については、勝てるかどうかは分からなかったが、(この場にあれがいなくとも)向かって来るのであれば応戦し、自らの魂が消滅しても、せめて致命傷は与えてやるつもりであった。
開かぬ筈であった目が開き、意識せずに息を吸う、五感が戻る。だから……
ああ、死んだのだ俺は。
そう思い、自らのこの直感に間違いのない事を悟ったので、そのまま……倒れた時と同じ、自分にしては酷く惨めな屈辱の姿勢のままで、ただぼんやりと両の目だけを動かし辺りを見回す。
(俺はあの男に倒された、敗れ、斃れたのだ。)
あの男……死んだ今となっても自分には、理解する事も分かり得る事もない、あの男。
希望や未来、仲間、輝きや夢と言った我等青の闇の者達が最も侮蔑し嫌う形なき……陽のような赤の力を一身に負った小さく幼き者に。
(……)
褐色の肌の男……バラクーダはただ、目を開きぼんやりとしていた。
未だ倒れたままである。これではあまりにも惨め。生前の自分であればそう思い直ぐに立ち上がっただろう。この姿を先代の奴……父が見たとすれば愚か者、いつまで地に伏しているのかと一喝するであろう。
だが、バラクーダはどうにも立ち上がる気にはなれなかった。
赤の者との戦いを続け、体は死しても心が疲弊しているのだろうか。
そうではない。ここに……三途かどうかは分からぬが、肉体は既に死してしかし仮物の五感は寧ろ冴えている。
動かなければ、立ち上がり配下達に指示を出し己が気を奮い立たせ……
生前のバラクーダを無理にでも前へ前へと動かしていたもの達は今はもうなくなっている。
何もないのだ。ふと、どうでもいい、と言う生前には多忙の為に考えもつかなかった思いが浮かび上り、気怠さに捕らわれる。
鼓舞し、自らを突き動かしていたのか、動かされていたのか……生前から継いだ地位も、それに従い頭を垂れていた配下兵士達はいない。
気を抜けない要因となっていた奴等二人……ある程度の力は持っていたアスは邪魔となったので消し紅蓮は既に斃れた。
……あれが。
唯一人、この身を畏怖も敵意も憎悪も邪気も持たず、情を込めた声で呼んでいた者。
(……)
その声はもう二度と聞く事は出来ないだろう。自分には聞ける筈がない。
(もう……良い。)
自分もいい加減諦めろ、忘れてしまえと。そう思う。
先代より永きに渡り戦いを続け青き力を持つ我等と争い続けた者達。
その忌むべき者達、奴等自体がもうここにはいない。
先刻、いや……いつだろうか。最早分からない。
赤の頂点に立つ男と戦い奴は勝利し、自分はひたすらに惨めな事だが敗れ無様に屍を晒し、斃れたのだから。
長かったのか短かったのか……最早どうでも良い事であったが、その過程で数多の生命を……生命だけではない。
生物どころでなく、両の指では数え切れぬ国……そこそこの大きさのものから国をただ自称する小さなものまで、根こそぎ滅ぼした。
得れば拠点となる重要な都市や抵抗する組織等は尚更の事で、生物の命ごときは呼吸をするように当然に、自らの生きた過程の中で奪い続けて来た。
兵士達の士気を下げない為にも、バラクーダは先代に倣い、攻め入った国々には自分達が治めるべき箇所以外は基本的には好きにさせていた。
先代から続く彼等の軍の強さと……金となるものは何でも略奪の限りを尽くす、その様はどこへ行っても恐怖の対象と語り草となっていた。
こうして、今はもうどうでも良くなった生前に、人々の住まう場所を奪い命を断ち、火を放ち根絶やしとし……野に晒された兵の屍の山も打ち壊された家屋の横に転がる老人の死体の焼ける臭いも、雑兵に拐かされ人買いに売られ泣き叫ぶ女子供の悲鳴も、そう言ったもの共を生み出した根本の原因の内半分はこの身にあっただろう。
他者、特に弱き者の生命などにはこれと言った特別な思いなどはないが。
因果応報。死したこの身がゆく先はまず間違いなく地獄、血河を渡りて……
そして恐らく、積極的に生命を断った数は自分とは比ぶべきもないが、あれも、いずれ直ぐに自分がゆくべき場所……光も何もない地獄へいるだろう。
すでに先にいるだろうか……同じ場所へ。
もう聞く術もないその声が、永訣した事をまるで嘘であったかのように脳裏を過ぎる。
あれが居る。
確信などない一方的なその思いを抱いた途端、バラクーダの気怠さが失せ、手足の末端までに何かが流れ行くように熱が生じる。
そして心が動く。
彼を思い急速にはっきりと意志を持ち始める自らの心をバラクーダはただ愚かだと自嘲した。
(……幾度だっただろうか。生前に……体を数え切れぬ程繋げ、重ねていた。しかし俺はあれに所謂、愛を謳う事などは一度も無かった。けして思い故に交わりのあった仲ではなかったと思う。この身に、我等の身に情などは不要な物であって、それは誰にでも分かる事だ。あれだって、幾ら俺を慕っていたとしても心のどこかではそれを分かっていた筈だ。)
だから枷となるしがらみなど全て捨て去ってしまえと、そう思い虚空を睨むが、心を捨てろと思えば思う程、脳裏に焼き付くように浮かぶものは彼の者の姿。
……絶世の。実兄の自分がそう言っても差し支えないだろう、またとなく秀でた容貌と、同じ色をした髪。自分を呼ぶ、甘えるような声。
それらが絡むように心に縛り付き、バラクーダを乱す。
(死して今なおお前は情を以て俺を捉えようとするか。)
俺はお前を手に掛け糧とし、しかし敗れた。
勝利したのであれば良い。目に見えぬ、だが俺の一部となったお前と共に生き続ける事が出来たのだから。
お前を手に掛けた上で敗れ、斃れたのだから、もうお前とは決別しなければならない。
しがらみを、情を全て絶ち切らなければと思い、捨て去り、決別せよとバラクーダは自らに言い聞かせる。
見据える空は、灰。何とも形容し難いどろりとした彼岸の、死後の世界のその色とそれと同じく渦巻くような悶々とした思いのまま、しかし体は明らかに意志を持ち、動こうとしている。
ここを離れ歩きさまよえば、あれはどこかにいるのだろうかと。
どれ位の間であっただろうか。
赤の男に負けた、ああ負けた。だから俺は起き上がる気も失せていた。
しかし俺は元は多くの配下を持ちそれらを束ねていた者だ。
いくら死したとは言え、その身が地に転がり続けていたままでは阿呆のようであり、先に逝った奴等が見れば我等の主はと嘆き、情けなく思うだろう。
それでは示しが付かないし、魂となった今も毅然としていなければならない。
だから立ち上がらなければと、それを理由としてバラクーダは体を起こし、ゆっくりと歩き始めた。
濁った空の下、バラクーダはゆっくりと歩く。
流石に死の世界……悪行を重ねた罪深き者達が行き付く場所の入口である。
枯木一つ存在しない。ただ道行く所に大小の岩らしき物が無数、乾き切った地から生えているのみである。
(……)
歩き始めはバラクーダも辺りに気を配ったものである。
先ず、遥か遠い過去にこの手で弑逆した先代がやっては来ないか。それを考えた。
……奴については、勝てるかどうかは分からなかったが、(この場にあれがいなくとも)向かって来るのであれば応戦し、自らの魂が消滅しても、せめて致命傷は与えてやるつもりであった。