その後
生前に油断のならなかった紅蓮がたわむれにと襲い掛かり、排除したアスが己への憎悪の赴くままに牙を向けて来たとしても、どちらも二度と動けぬようにし、例え畜生界にでもその肉片を置かぬ程に叩きのめすつもりであった。
その、生前に何人も信用していなかった。先代と紅蓮とアスが挑みに来ないかと気を張っていたが、今は気配はない。
奴達はこれから己がゆく場所……地獄にいる筈である。
(三途の路までの熱いお迎えはなかったか)
ふんと鼻を鳴らす。奴等は自分が思っていたのより腰抜けなのか、このバラクーダともあろう者が舐められているのか……まあ、嫌でも必ず会う事になるだろう。
手荒いお出迎えがないのであれば、それはそれで構わない。
地獄へのこの道は一人で歩いていこう。
そう思った瞬間に、遥か遠方に強者だけが持つ特有の気配の存在を感じ取り、バラクーダははっと我に返り、そして身構える。
意識せず戦闘の体勢となる程に、その存在は力を放っていた。
その強さはループ等の配下レベルのものではない。ならばアスか紅蓮か……先代か。
バラクーダの考えは瞬時に否定される。
気配が点となりやがて人の形を成す程にバラクーダに近付く。
その前に彼は既に構えを解いていた。
歩み寄る人型の影。
バラクーダは目を見開き、気配の主……人影の姿をじっと凝視する。
この気配……こちらに向け放たれる力に、一切の邪気……敵意や憎悪が全く感じられない。だから、アスや紅蓮、ましてや先代のものである筈がない。
人型となった影は、たちまち近くへとやって来る。……急いでいたのだろう。
「にいさま」
先刻まで地に伏したままのバラクーダを立ち上がらせた、その、二度と聞き得ないだろうと思っていた声が……いつものようにバラクーダを呼ぶ。
やがて彼は完全に姿を現す。生前と寸分違わぬ……何事にも厳しいバラクーダですら、絶世のものだと認識していた冴え冴えとした美貌。
自分と同じ銀の髪。それが昔はバラクーダには惜しく……このまたとない美貌を彩る彼の髪が、それに相応しい目映い黄金色であれば、と秘かに思っていたものであったが、この者の美しさの前では些細な事で、却って落ち着いたこの銀の方が、彼を一層引き立てていた。
姿を現した美貌の持ち主は、彼を凝視したまま佇むバラクーダを前に、珍しく僅かに戸惑ったような表情を浮かべ、しかし呟く。
会いたかった、と。
彼を殺し己が身の糧とし、しかし勝たねばならぬ戦いに敗れた。
この身魂となった今、血河を超え行き着く場所は同じであろうと、決して、決して二度とは会わぬ、会えない者なのだと。
そう思っていた相手……実弟のシルヴィスがよりにもよって己が身の前に姿を現した。
生前と何ら変わらず、甘やかな、縋る様な……当人は意識はしていないのだが、バラクーダには媚を含んだようにも聞こえる声で、他愛のない無駄話や冗談、罪のないいたずらを仕掛け、さながら幼子のように彼はバラクーダの周りをくるくると回る。
彼が話し掛ける、笑う。……こうして側にいる。
生前の当たり前の光景。
会わぬ会わぬと決意していた先刻までのバラクーダの思いは全て水泡に帰した。
眼前の彼が生前のまま、彼を手に掛けた無様な敗者を迎えたから、だから。
邂逅は必然であったのだろう。
当たり前の光景の後は、“生前のいつも”が続いたまま。
それはこの三途を越え地獄へと赴くまでのほんの僅かの間のやり取りである事は、バラクーダには分かっている。
先にここに辿り着いていたシルヴィスもそれは良く分かっているのだろう。
国を滅ぼし数多の生命を断ち先代を弑し同志を手に掛けた兄。
直接的にも間接的にも、シルヴィスは、兄のそれらの所業全てに関わっている。
(そして当人である彼等は考えてはいないが、女のように兄を惑わした弟、それに応じた兄、実兄と実弟が交わった……その罪)
ゆく先はどちらも、光なくただ昏い地獄。
バラクーダにとっては目的の遂行以外には敵と大して変わらなかった存在でしかなかった同志達、
シルヴィスにとっては、生前も今もただ兄を頼りとして。他はその野性味を気に入る事のなかった紅蓮と高慢さが鼻に付いたアス。奴等は待っているだろう。
二人、どちらも地獄までも共に……そう思っていたが、そこへ行き着くまでの束の間を、生前の数少なかった安らかな記憶として留め、残して置きたい。
特にシルヴィスの方は本能でそう思っていたのだろう。あれをこれをと饒舌な程にバラクーダに話し掛けた。
この弟だけは、無駄話であっても多少であれば拒みはしなかった。
しかし、堪らず制する。
「シルヴィス」
「なに?」
「……俺はお前の兄だ。お前が思い考えている事は分かる。だから気持ちは分かるが……少し口を閉じろ、先王の血を継いだ者として。」
「奴は嫌いだ」
「分かっている。だが、お前は俺の弟だろう」
バラクーダは歩みを止めたシルヴィスの背に合わせ、少し屈む。
配下達が嘆息し……特に女を演出していたループなどは半ば本心で嫉妬の眼差しを向けていた、その凄味のある美貌に顔を近付ける。これはバラクーダだけが出来る特権とも言えた。
「俺のたった一人の……シルヴィス、そうだろう」
だからその、何人も敵いやしない顔を歪めるなと、先代の名を出した途端に表情を引き攣らせた彼に、諭すように甘やかに言い聞かせる。
一見穏和に聞こえる口調の本心には、シルヴィスに対する優しさや情愛はなかった。
天性の美貌と引き換えにどこか情を欠落し、そのままに生まれ落ちて来たのだろうか。
兄であるバラクーダが生前に少しそう思っていた程、心の赴くままに頻繁に感情を昂らせ、性質にどこかあやうさを持つ弟には、こうして宥めるように言い聞かせる事が最も無難で、有効であった。
(……いつもそうだった。)
奔放な弟の言い分を通す素振りを見せ、バラクーダは、譲れない事があり自らの意志を強行する時には、手段として必ず優しさと愛を装い、彼を慕うシルヴィスの思いを利用し、情に訴え、結局は我を通し続けていた。
彼の思いを利用すれば必ず、弟は兄の言う事を聞き、最後には従った。
それがバラクーダには楽だった。だから利用していた。
……思えば最後に、彼の命を糧としたあの時も結局はこれと変わらなかったのかも知れない。
兄を慕うのであれば、その手に掛かり、兄の望みの為に死ねる事は悪くはないだろうと。
お前はこの兄に尽くし、報いるのだと。
バラクーダの注意により口数を少なくしていたシルヴィスが、やがて何事もなかったかのようにぽつりと一言呟いた。
「にいさま」
「何だ」
「あのね……僕、来たよ。」
「今更、何を言っているのだ。こうしてお前は俺の側にいるではないか。」
「だって……」
バラクーダの言葉に対し珍しく言い淀むシルヴィスをふと見ると、シルヴィスは泣きそうな、しかし非常に嬉しそうな顔をしてバラクーダを見ていた。
大人びた美貌と裏腹に未成熟で、感情表現は子供のそれだった眼前の弟は、喜怒哀楽もまたはっきりと分かれていた。