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For the future !

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陽が落ちて夜となった。
それでも、パンパシフィック選手権の大会会場のプールは強い照明を浴びて明るい。
スタート台の向こう側の壁には巨大モニターがふたつあり、選手の様子や試合結果などが鮮やかに映されている。
観客席はほぼ満席状態だ。
様々な国の報道陣も多く来ている。
もちろん日本の報道陣もいて、今夜も、放映権を持つテレビ局が生放送している。
『いよいよ男子バタフライ100メートルのA決勝ですね』
『はい』
ついさっきまで、男子バタフライ100メートルの予選の様子を振り返っていた。
予選で一位から十八位までのタイムの選手が決勝に進出するのだが、一位から八位までの選手がA決勝進出で、九位から十八位のまでの選手がB決勝進出となり、B決勝進出の選手は決勝で九位より上の順位になることはない。
『この種目、絶対的王者と呼ばれたアメリカの選手が一昨年に開催されたオリンピックで引退しましたが、来年には復帰するとの噂もあります』
『あ、プールサイドに日本代表選手ふたりも登場しました』
凛の姿が映し出される。
鋭い表情で歩いている。
『松岡選手は日本代表選手ではトップの六位で予選を通過しました』
『日本選手権でもジャパンオープンでも負けた選手よりも上の順位での通過ですから、松岡選手は大舞台に強いのかもしれません』
A決勝に進出したもうひとりの日本代表選手は八位通過だった。
予選六位と予選八位は隣り合わせのレーンだ。
そして、予選八位は一番端のレーンとなる。両端は波の影響を受けやすいと言われるレーンだが、近代的なプールにおいては、コースロープの波消し効果や波を壁から打ち返させずにプールサイドへとあふれさせるため、今ではそれほど不利ではないとも言われている。
『観客席には、昨夜、男子フリー100メートルの決勝で松岡選手に競り勝ち金メダルを獲得した七瀬選手も来ています』
観客席にいる遙の姿が映し出される。
『昨夜のふたりの接戦はすごかったですね』
『ええ、見ていて興奮しました。どちらが勝つかということはもちろん、ふたりの突出した泳ぎに圧倒されました』
遙は自分のことをテレビで言われているとは知らず、知っていても興味を示さなかっただろう、いつもの冷静な表情で、じっとプールを見ている。
近くには日本代表選手がいるのだが、話しかけても遙が必要最低限の返事しかしないので、そっとしておくことにしたようだ。
そして。
端から二番目の、センターレーンから少し離れたレーンの、スタート台に、凛が立った。
昨夜の男子フリー100メートルの決勝では、凛は遙のほうを向き、話しかけてきた。
今の凛はプールを見据えている。
いつのまにか、観客席の遙は手のひらを拳に握っていた。ただし、無表情のままなので、だれもその変化に気づいていない。
"Take your marks!"
会場内に緊張感が満ちる。
合図の音が鳴った。
即座に、選手たちの身体が反応する。
凛の鍛えあげた足がスタート台を蹴った。
プールへと飛び込んでいく。
遙は息をするのも忘れて、凛の姿を眼で追う。
理想的な角度で着水したように見えた。
いける……!
遙は顔にはまったく出さずに、そう思う。そう信じる。
『松岡選手の得意のスタート、良かったですね』
『はい。これで、どの順位に持って行けるか……!?』
凛の身体は潜水している。
バタフライに限らず、本来的な意味において泳ぎ方が自由であるはずのフリーでさえ、スタートとターンのあとの潜水距離は十五メートルまでに制限されている。
特にバタフライと背泳ぎでは、この十五メートルの制限いっぱいまで潜水し、その間どれだけ速く泳げるかが重要となってくる。
もちろん、そんなこと、凛はよくわかっている。そのためのトレーニングを積み重ねてきている。
それでも不安になるのだ。
遙は予選まえに会ったときの凛の顔を思い出した。表情の無い端正な顔。
やがて、凛の頭が水面上へと出た。
『これは、松岡選手は三位ですね』
『一位二位の選手とたいして差はありません。いい位置につけました』
遙は無表情を崩さないまま、ただ、凛が泳ぐのを見る。
凛はスタートとターンを得意としている。
昔からそうだ。
凛が遙に初めて話しかけてきたのは、小学五年生だったころだ。おたがい違う小学校、スイミングクラブに在籍していた。
初めて参加した市の水泳の大会でのことだった。
速いな。ほんとに小学生?
そう凛は言ったのだった。
あのとき、遙はフリー100メートルで優勝した。二位だったのは凛だ。
そして、フリー50メートルで優勝したのは凛だった。遙は二位だった。
凛は短水路なら100メートルでも勝てる自信があると言った。
それを聞いて、遙はそのとおりかもしれないと思った。
同じ100メートルでも、ターンの回数は、短水路では三回、長水路では一回、と異なる。
ターンの回数が多くなれば、凛にとって有利になる。
凛がスタートとターンを得意としているのは、キック力があるからだ。
それがわかったので、小学六年生だった遙は凛のようにランニングで足の筋力をつけようした。
だが、凛は遙と同じぐらい、いや、遙以上に努力するので、スタートとターンに関しては、遙は凛に追いつけなかった。
今でもそうだ。
スタートとターンでは、凛に勝てない。
それを凛によくわかってほしいと、今、遙は強く思う。
自信を持ってほしい。
凛は豪快に水をかき、足をそろえた力強いバタフライキックで進んでいく。綺麗なフォームだ。
しかし、一位二位の選手に追いつかない。それどころか、四位の選手に並ばれようとしている。
だが。
『もうすぐターンだ!』
一位と二位の選手がほどんど差が無く、ターンしていく。
そして、凛もターンする。
ふたたびの潜水。
水の中を進んでいく凛の身体を、遙の眼は追いかける。
無意識のうちに上半身が少し前へと傾いている。
周囲の者たちはプールで競い合う選手たちへ盛んに声援を送っていて、遙に関心を向けていない。
『レースは折り返し地点をすぎました!』
『さあ、順位は……!?』
ターンして15メートルぎりぎりぐらいの地点で、凛の身体の一部が水面上へ出た。
『松岡選手は、三位、いや、二位か……!?』
『二位とほぼ並んでます!』
『順位をあげてきましたね!』
『一位ともそんなに差がありません』
『このまま行けば、メダルを獲得できます』
観客席から湧き起こる声が大きくなっている。
遙のまわりでは、松岡! 松岡! と凛に向かって熱心に大声で呼びかけている。
そんな中で、遙はただただじっと凛が泳ぐのを見ている。
『昨日に続き、二個目のメダル、獲れるか、松岡選手!』
しかし。
凛と並んで泳いでいた選手が、凛よりまえに出た。
凛の順位が落ちた。
単独二位となった選手の身体がさらにまえへと出る。
引き離されようとしている。
遙は拳を強く握った。
まわりの声援はさらに大きくなる。凛を励ます声をプールへと飛ばしている。
遙は口を開いた。
「凛!」
呼びかけた。
今、プールで競い合っている選手たちの中で、努力してこなかった者はいない。だれもが必死で努力して、ここまで来たはずだ。
それでも、願わずにはいられない。
作品名:For the future ! 作家名:hujio