For the future !
二年目九月下旬 アジア大会競泳競技第五日目
アジア大会競泳競技第五日目の午前、男子フリー100メートルの予選が終わり、遙はサブプールにいた。
サブプールはメインプールとは違い天井が低い。プールサイドには白い机や黒いパイプイスがあり、選手やコーチやトレーナーがいる。
背後から声がした。
「ちょっといいか?」
凛だ。
遙は振り返って、その顔を見る。
まだ本格的な練習に入るまえだ。コーチやトレーナーと話している途中でもない。
それを見計らって、凛は声をかけてきたのだろう。
遙は無表情のまま、ただ、うなずく。
すると、凛は踵を返し、遙に背中を向けて歩き出した。
無言で、ついて来い、ということ。
なんだかえらそうな気もしたが、遙は従ってやることにした。
人がたくさんいるサブプールを出て、人気の無いところまで行った。
凛が立ち止まった。だから、遙も足を止める。
眼を向けた先にあるのは凛の硬い表情。
「……おまえ、昨日、眠れなかったのか?」
どうしてそんなことを聞くのだろうかと思いながら、遙は口を開く。
「いや、よく眠れた」
あっさりとした口調で答えた。本当のことだ。
「じゃあ、睡眠不足ってわけじゃねぇんだな?」
「ああ」
「だったら、なんであの結果なんだよ?」
凛の声からイラだちを感じた。
あの結果、それはもちろん男子フリー100メートルの予選のことに違いない。
男子フリー100メートルの予選の結果に対して、凛は不満を持っているようだ。
それも、自分の結果ではなく、遙の結果に対して。
遙は表情を変えず、すっと視線をそらした。
「……別に」
「それじゃ答えになってねぇよ。なんで、おまえ、四位なんだよ? ってか、なんだよあのタイム」
遙は予選を四位で通過した。
一方、凛は一位通過だ。
面倒だと思いつつも、遙は眼を伏せたまま反論を試みることにする。
「国際大会で四位なら別に悪くないはずだし、それに予選では力をある程度温存しておく場合もある」
「ああ、確かにな。だが、おまえはそういうタイプじゃねぇだろ」
予選では流して泳ぐ場合もあるのは事実だ。
しかし、凛が指摘したとおり、遙はそれをやらない。
.01秒の差で明暗がわかれたりもする競技だ。予選では同じプールに泳いでいる選手たちの順位がそのまま全体の順位になるわけではなく、他の組の選手たちのタイムも意識しなければならない。
まして、今は国際大会だ。
ある程度力を温存しておいたら、決勝進出できないかもしれない。
そんな不安が多少ある。
それに、遙は予選と決勝の一日二回全力で泳ぐのを苦にしてはいない。
「なんでだ?」
強い声で凛が問いかけてきた。
だが、遙は黙っている。
すると。
「おまえ、俺に勝ちを譲る気なんじゃねぇだろうな!?」
そう凛が聞いてきた。
その声から切実な響きを感じ取って、遙は戸惑い、眼をあげて、凛を見た。
視線がぶつかる。
遙よりもずっと強い視線。
凛が探るように遙の顔を見ている。
「俺が昨日の予選で失格になったから」
それを聞いて、遙は、ああ、と思った。凛が問いかけてきたことの意味を理解した。
昨日、凛は男子バタフライ100メートルの予選で失格となった。それについて批難している者たちもいるらしい。だから、遙は凛の名誉挽回のために勝ちを譲ろうとしているのではないか。
そんなふうに凛は気にしているようだ。
「それは違う」
いつもの感情のこもらない声で遙は否定した。本当のことだ。
「じゃあ、なんでだ」
ふたたび凛が聞いてきた。
困ったな、と遙は思う。
あれが俺の実力だと言い逃れできる状況ではなさそうだ。最初にそう言って、突っぱねておけば良かった。
「……泳いでいるときに、一瞬、妙なことが頭に浮かんで、集中が途切れた」
「まさか、俺のスキャンダルか?」
「違う」
はっきりと否定した。これも本当のことだ。
男子フリー100メートルの予選で泳いでいるとき、遙の頭に浮かんだのは、凛のあのスキャンダルではない。
調子よく泳いでいた。
そして、それが崩れることなく折り返し、やがてゴールも近くなってきた。
このまま行ければ良いタイムが出るだろう。
そう思った直後。
『二年後のオリンピックでも金メダルを穫ることを期待されていますが、どう思いますか?』
静岡合宿で取材を受けた際に聞かれた台詞が頭に浮かんできた。
さらに。
『おまえ、金メダル期待されてるからな』
昨夜、部屋に来た選手から言われた台詞も、頭に浮かんだ。
これで良いタイムを出せば、一位になれば、また金メダル金メダルと言われるのだろうか。
そう遙は思った。
しかし、すぐに頭に浮かんだことを消し去った。今はレースの最中だ、それに集中しなければならない、そう判断した。
だが、あのとき、ほんの一瞬だけれども、迷った。
.01秒の差で明暗がわかれたりもする競技だ。
そして、あの結果となった。
これが本当のこと。
でも。
「サバ料理がいろいろ頭に浮かんできて、食べたいと思った」
嘘を、ついた。
本当のことを言えば凛が心配しそうな気がした。心配をかけたくない。男子フリー100メートルの決勝が控えている、この重要なときに。
作品名:For the future ! 作家名:hujio