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ワイン

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「いつか、何十年か経って、」
窓から入った風に、長い髪が揺れて光をまとった。
口火を切った彼女は、隊内でも情報屋を自認する、ゴシップ好きだ。ただし、それだけでは無いことを稲嶺は知っている。
「司令が亡くなられて、お墓に入ったら、」
くるりと振り返った顔は、口許が緩んでいた。何度か見たことのある、悪戯を企む子供のようで、大人の苦味が混ざった笑顔。妻が目にしたなら、きっとチェシャ猫みたい、と微笑したんじゃなかろうか、今になって思う。職を辞すると決めてから、過去より妻本人を振り返ることが多くなった。失ったことを振り返っても現実を変えられるわけじゃない、と思っていることに、変わりはないのにである。
「お墓に、お酒、かけてもいいですか?」
「お酒、ですか。」
珍しいと思うのは、こんな他愛もなさそうな話を彼女がすることだった。普段の印象を、彼女の秘かな同僚たちや、同期や上司から聞くと、その自然な華やかさに違和感を覚える。稲嶺の前に立つ柴崎麻子という人間は、それくらい、表情豊かに見えて、且つ言葉数が少なかった。必要と信ずる言葉以外を口にするのを惜しんでいるように、稲嶺は感じている。酒を好まない稲嶺に断って、死後に与えられる酒の話に必要性を未だ見極められない。
「はい。イマドキ?って感じですけど。それも、昔のお約束の日本酒じゃなくて、」
そこで彼女は、一呼吸いれた。まっすぐに見つめてきた双眸が靭くきらめいた。
「赤い、ワインを。」
胸を突かれた思いで、身動いてしまったのだろうか、座る車椅子が小さな音を立てる。
その事に、あるいは彼女が暗に指し示す内容に、稲嶺は困って苦笑を溢した。
「キリストですか。」
これは私の血である、と赤ワインを指した言葉は、キリスト教を信じるものでなくとも有名だ。
それを、彼女は稲嶺の墓にかけると言う。
果たしてそれは、誰の血を模したものだろうか。問わずとも、稲嶺の血ではない。
図書隊を武装化し、その司令と呼ばれ、それ由に数多の命令を下し、数多の血を、流させてきた。そして、職を辞したとしても、これからも流れる血は武装化を進めた稲嶺に因るのだと、知っている。車椅子に乗る司令。決して前線に立つことのできない老体。反して流される血は、いつも健全な若い身体が持つものだ。
それを指摘してくれる、まだ若い聡明な部下。意外なことに、この良くできた部下は、稲嶺を手厳しく慰撫してくれている。
「私はあまり出来た上司ではありませんでしたね。」
批判を受ける態で言葉を返す。
「ご謙遜を。顧問を辞退なさる気ありませんでしょうに。」
さらりと皮肉を混ぜるのは、稲嶺にはやはり、珍しい。同輩に軽口として告げる姿を見たことはあるが、上司としての立場からかそれが稲嶺に向けられたことは今までなかった。
「年の若くて安い、血のように赤いワインを一本、まずはかけます。」
まずは?と疑問に思うが早いか柴崎は言を繋ぐ。
「それから、これは何本になるかわかりませんが、白ワインをかけます。」
話が思わぬところへ行った。赤ワインが隠喩するところは正しかったのだろう。だが、白ワインとは何を示しているのか、掴みかねる。
「清廉で美しい、若い真っ白なものから、年月を経て琥珀のように暖かな色をしたものまで、何本も何本も、何本だって、私たちの信念のような色のワインを、みんなで…。」
困惑が弾けとんで、稲嶺は眼を見開いた。この部下は、柴崎は、怒っていたのだと気づいたからだ。
職を辞することも、図書隊を武装化したことに後悔はしないようにしているが、その負い目を背負っていたことにも。
迷いがなかった、とは言い切れない。迷わなかった、悩まなかった者に、少なくとも稲嶺は着いて行きたくはない。その稲嶺が振るった采配にどんな判断をするかは後々に生きる人が決めることだ。
ただ、今を生きている、このときに血を流している若輩にどうしても湧くやるせなさを、柴崎は怒っている。
耐えられなくなったら辞めていい、とは腹心の玄田が部下に言った言葉だと、柴崎が告げてきたこともあった。ことに無表情で、あまり気にはしなかったが、あれも、怒っていたのだとしたら。
どうやら、部下を把握できていなかったのは、茨城に限ったことではなかったらしい。
これは、引責辞任も早いか遅いかだけだったのではないだろうか。
自分たちが、本を、自由を守るために武器をとった信念は、意志は、流れる血よりも、重く多く、稲嶺にかけられてきたのだと。怒りを込めて、柴崎が突き付けている。
ああ、けれども。意図をここに至るまで気づけなかった情けない老体だけれども。
この安堵は、喜びは、いっそ晴れやかで。
「お墓に入ったあとまでは、流石に関知できませんから、どうぞ自由になさってください。」
随分と久し振りに、頬が痛むくらいに持ち上げて笑う。
柴崎は憤懣やる方ない、と言わんばかりに胸を反らして、言質いただきましたからね、と息を吐く。そうしてまた、チェシャ猫の笑みを浮かべると、
「あ、最後にちゃんと、真水でお墓洗いますから!そこは安心してくださいね?」
情報屋らしく、酒を被ったままの墓が如何に虫に集られ、隙間から浸透したアルコールが墓石を傷めるかを嬉々として語り、最後の最後で、柴崎のキャラクターの華やかさを見せたのだった。
もう少しの時間があれば、彼女の生き生きとした語り口をもっと多く聞けたのか、とほんの少し、稲嶺は基地司令を辞することを、ようやく勿体なく思った。

作品名:ワイン 作家名:八十草子