敵中横断二九六千光年2 ゴルディオンの結び目
三浦半島に遊星が落ちた日
「ユキ! ユキ! あれを見なさい! あれを見ればあなたも考えが変わるはずよ!」
母がテレビの画面を指して叫ぶのを、森雪は最初は聞こえぬフリして取り合わなかった。2192年。三浦半島に日本で最初の遊星が落ちた日だ。雪はこのとき高校生で、勉強机に向かっていた。こんな家なんとしても出てやるんだ。しかし男を捕まえて部屋に転がり込むなんていうのはごめんだ。となると道はそう選べない。士官学校の試験にパスして寮に入るぐらいしか……何しろ親があんなでは、学費は自分でどうにかするしかないのだから。
「遂に来たのよ!」母は叫んだ。「ほら見なさい! あたしが言ってた通りになった! 見ればあなたもわかるはずよ!」
バカらしい。雪は無視して数学の式を解くのを続けていた。普段ならばすぐあきらめて声をかけてこなくなるが、しかしこの日は違っていた。両親はドアをブチ破りそうな勢いで部屋の中に飛び込んできた。
「ちょっと! 入るなって言ってるでしょ!」
「また勉強!」母が言った。「あんたって子は! そんなのは無駄だと言うのがなぜわからないの!」
父も言う。「どうしてお前はそうなんだ! そんなことをしていたら、本当に楽園への道は閉ざされてしまうぞ。地獄で焼かれてもいいのか!」
「ああはいはい」
と雪は言った。こんな親にまともな返事をしても無駄だ。どうせまたすぐ『お前には悪魔が乗り移っている』だとか喚(わめ)くのだろう。これが毎度のことなのだから、イカレた親は持ちたくない。せめて男に産んでくれていたならば、勉強なんかしなくてもサッサと家を飛び出して仕事と住み処(か)を見つけられていただろうに。
「とにかくすぐテレビを見るんだ!」父が言った。「今日という今日はお前にもわかる。遂に終わりのときが来たんだ! 神が人を滅ぼしに来てくださった!」
「ふうん」ヤレヤレと首を振った。「よかったね」
「そうよ! この日を何百年待ったことか!」
「ああもう」
嘆息した。今年、何歳なのよ、母さん。と思っても言ってはいけない。両親が信じ込んでるタリラリラン教団は明治だか元禄(げんろく)だか神武(じんむ)の頃から日本にあって、世界の終わりはもうすぐだ来年には終わるかもしれないいいや今年か再来年か、しかし三年も先ではないと去年もおととしも言ったけど今度こそは間違いないと毎年毎年言い続けてきた。何百年もの間ずっと。アラホラサッサな信者達は、それは大変だどうしましょう。カネです、お金を集めるのです。稼いで稼いで、稼いだものは、みんな教団に納めるのです。そして伝道に努めましょう。あなたの友や隣人を、みな信者にいたしましょう。そして持ち金残らず、いいや、尻の毛一本残らずカネに換えさせて教団に献じさすのです。あなたがそうしたときにだけ、神はあなたをお選びになられ、やがて来る滅びのときにあなたの魂をすくい取り楽園に運んでくださるのです。
「だからあんたも早く来なさい! 見れば今度こそわかるんだから!」
と母が言う。娘として生まれてこのかた、この親がマトモだった瞬間をただの一秒も見たことがないが、それにしても妙だった。盆と正月とクリスマスと七五三とハロウィンと七夕と、ブラジルはリオのカーニバルがいっぺんに――それら〈異教〉の祭はすべて、教団が悪魔の罠と呼んで戒律で禁じているが――やって来たように浮かれている。
父母は今にも首がギギギと一回転しそうだった。ふたりでドタバタと駆け回り、壁を駆け上がって天井を走り向こう側を駆け下りてグルグルグルグルとヴァーティカルにまわり出しそうな勢いだった。雪は両腕を押さえられとうとう椅子から引っ剥がされた。テレビのある居間へ引きずられる。
「なんなのよもう」
そして見た。神奈川県の三浦半島に遊星が落ちたというニュース。
「ほらね! 言った通りでしょ! 教えは正しかったのよ!」
「そうだ! 遂にときが来たんだ!」
父と母は手を取り合って、オイオイと泣いて感動を表した。雪は戦慄する思いで、テレビの画面と両親とを見比べた。
「どうだ! これが神の罰だ! 死ね! みんな死んでしまえ!」
「そうよ! 信じない者は、みな地獄へ落ちるのよ! 愚か者はみんな永遠に焼かれるがいいわ!」
父と母は叫び続ける。人が人でなくなる瞬間と呼ぶものがあるなら、たぶんこれがそれだろう。両親はもう人間でなかった。そこにいるのは鬼だった。二匹の鬼は、ザマアミロザマアミロとゲラゲラ笑って言い続けた。どうだ、これが終わりじゃないぞ。これは始まりにすぎんのだ。この遊星がすぐここにも落ちるのだ。我らを笑った者達は、神が地獄へ落としてくださる。我ら神を信じる者のみ、楽園へと行けるのだ――。
「ユキ!」叫んだ。「どうだ、これでわかったろう。今すぐ悔い改めろ! 救われるにはそれしかないんだ!」
「そうよ! 今なら間に合うかもしれないわ! これまでの過(あやま)ちを認めなさい!」
雪は言った。「過ち? 何言ってんの?」
「何言ってるだと! これを見てもまだわからんのか!」
父が指し示すテレビの画(え)をあらためて雪は見た。映っているのはまさに地獄の光景だった。無数の死体が転がっていた。手足がちぎれ、ねじ曲がり、折り重なって山となり、血が池となり広がっていた。ジグゾーパズルのピースをブチまけたようだった。煙を上げて燃えていた。その中をまだ生きている者達が、這いつくばって動いていた。服は焼かれ、皮は剥がれ、腹から腸をはみ出させ、もはや人の形などとどめぬものになりながら。テレビでは叫び声は聞こえない。匂いもしない。死んだ者らが最後に何を感じたか、まだ生きている者達がどんな苦しみの中にいるのか、画を見ていても想像できない。
しかし、これと似たものをどこかで見たことがあった。父と母は画面を見て満足げに頷いている。涙を流して微笑んでいる。この光景が本当に美しいものに見えているのだ。むろんそうに違いなかった。カルトに呑まれた人間は、他人の痛み苦しみなどに共感する心は持たない。だから、この地獄図をニンマリと笑みを浮かべて見ていられる。
思い出した。そこに映し出されているのは、このふたりが何十年も毎日毎日配り歩いた小冊子に描いてある絵と同じだった。やがて来る滅びの日。神がすべての人間を殺しに来てくださる日。このふたりはずっとそれを待っていた。このふたりには、これこそ神が存在し、善(よ)きものである証明なのだ。
「なんと素晴らしい」父は言った。「人が死んでる、人が死んでる、人が死んでる、死んでるぞ! もがいてる! 泣き喚いてる! 無駄だ! どうせ死ぬんだからな! こいつらはきっと救われないぞ! いい気味だ! いつまでも苦しんでいろ!」
「ユキ! これでわかるでしょう!」母も言った。「ここに映っているのはみんな、地獄へ行くやつらなのよ! あんたもこうなっていいの? 救われたいと思わないの? これを見ても心が動かされないとしたらあんたはもう人間じゃないわ!」
雪は言った。「いいかげんにしてよ」
「な……」と母。「なんですって?」
「『いいかげんにして』って言ったの。あたしに構うのはやめて」
「お前……」
作品名:敵中横断二九六千光年2 ゴルディオンの結び目 作家名:島田信之