まばたきする間
花井くんは、幸せだね。いつかの監督の声が耳に囁く。……幸せなもんか、ひどく苦しい。そう、花井は思う。ペットボトルを額に押しつけて、ぐっと歯を食いしばる。膝を抱えこんだてのひらに力をこめて、震える体を抑えようとした。気温は三十度を超えている。湿度の高さもあいまって体感温度はそれ以上だ。しかしこめかみを流れていく汗はじっとりと皮膚を濡らして表面の体温を下げていく。今だって、ライバルと言えるかどうかもあやしいのだ。あの男は花井が一段一段登ってきた階段を、一段抜かしどころかそれそのものを軽いジャンプで飛びこしてしまうだろう。そうして段上から花井を見つめるのだ。早く来ないと置いて行くぞと。顔を見られるのも一瞬で、花井の網膜には彼の背中しか焼きつかない。畜生、腹の底から湧き出た言葉はひどく低く、濁っていた。相手はあの田島だからと、その状態に甘えていた自分が腹立だしかった。
花井は、俺にいじめられて辛い?大ぶりに切り分けられた角煮に歯を突きたてながら田島が問いかける。油にまみれたくちびるがふしだらに光っている。花井は餃子を箸でつつき、破れてしまった皮からのぞくキャベツのみじん切りやニラの細かいのをじっと見つめた。額の上のほうに、田島の視線を感じる。花井は餃子を口に入れた。根も葉もない妄言を前提に話されても答えようがない。しかし田島はそれを了解していないのか、花井に構わず次々と根も葉もないことを喋りだす。一体全体、いつ花井は田島に打ちのめされてベンチ裏でしくしくと泣いていたりしたのだろう。全く身に覚えのないことをさも当然のように言って寄越すので、花井は逆に感心してしまう。花井のチャーシューメンを運んできたアルバイトの大学生が、田島の話を聞いてぎょっとして花井の顔を田島の顔を見比べた。さすがにそれには花井も我慢ならず、行儀が悪いのにも構わず箸を振り上げた。眉を厳しくして田島を睨む。よくそんな出鱈目ばっかりぽんぽん出てくるな。田島はあのいつもの笑顔でにっと笑い、まったくだよなあと言って寄越す。俺だってそんな花井なんか見たくもないね。
田島はお前をいじめてなんかないよ。ペットボトルを一気に傾けてその中身を飲み干した。巣山は空のボトルを指先に遊ばせながらぼそりと呟く。花井は膝の間に顔をうつむけてそれを聞いた。判っている。あの男にそんな器用な真似ができるものか。田島の言動に、いちいち引っかかっているのは自分のほうだ。
お前がそうやってぐじぐじやってるのを見てると、なんかなまあったかい気分になる。……知るか、そんなの。……お前、気がついてねーとは言わせないぞ。腕の隙間から顔をあげると、巣山が眉間に皺を寄せているのが見える。怒っているふうではなく、心底呆れたという顔で、ああとため息をつく。空のペットボトルを壁際に置き、砂利音をさせて立ち上がる。デニムのポケットからメダルを取り出し、マシンに落としこんだ。緑色のネットをくぐる。右打席でバットを構える。百四十キロのストレートが巣山の懐に食いこむ。
一球目は緩いゴロになった。二球目を捉えて右に運ぶ。三球目は空振り。四球目に構えたところで巣山が口を開く。この間からだ、監督はお前にプレッシャーをかけてる。空気が唸る。巣山の背中のシャツがよじれ、畜生、と震える。打者じゃお前がナンバーツーだ、だけど田島との差は大きいんだろうよ。音が鋭い。ボールは左中間を抜ける。巣山は真芯で捕らえた打球に見向きもせず体勢を整える。息が荒れる。ふざけんじゃねーよ。ほとんど息のほうが多い声でそう言って、バットを振る。それは花井に向けたものでも田島に向けたものでも、ましてや監督に向けられたものでもなかった。巣山は自分に苛立っている。
田島はお前のことが嫌いだってよ、だったらな、俺だってお前のことが嫌いだね。二球続けて巣山のバットは空を切る。湿度の高い空気がわずかにかきまわされるばかりで、ちっとも体感気温は下がらない。花井は巣山の寄越したペットボトルを額に押し当てた。粒の大きい汗をかいたボトルから、花井の皮膚に水分が移る。眉間から鼻の筋を水滴が落ちた。なんだって言うんだよ。ほとんど吐息に近い花井の問いに、巣山はますます冷えた声で応えた。そういうのが気になるんだったら、もうちょっと周りにどう見られてるかを気にしたほうがいいぜ。
お前、キャプテンなんだろ、と巣山が続けて言った。言って振ったバットにボールは跳ね返ったが、高く空に上がってしまう。巣山。藁にもすがる思いでその名前を口にしたが、巣山はそれには答えずにマシンから飛んでくるボールに備えている。そのスローモーションのような動きに花井はめまいを覚える。
判るか花井。ベストメンバーだったら俺は三番だ。だから俺はなにがなんでも塁に出なきゃいけない。最悪、ツーアウトでも俺が出れば田島に回る。田島はなにがなんでも打つだろうよ。ツーアウトだから俺はスタートを切ってる。シングルでも三塁まで行ける。これがどういうことか判るか。
判るとも。花井は目を眇めて巣山の背中を見ている。ペットボトルを握るてのひらが、水滴とは違うもので濡れた。マシンが動き始める。俺の打順で巣山が三塁にいる。
滑らかなフォームだった。美しい弧を描き、弾丸ライナーでボールはセンターを抜けていく。カラン、とバットが地面に放られ、巣山がネットをくぐる。花井の目の先に立ってその爪先を蹴った。うずくまっている花井は首の後ろにぐっと力を入れて巣山を見上げる。眩しい。巣山の表情は読み取れない。打てよ、と巣山が言った。
それでもギュッと唇をかみしめて、花井は巣山を睨む。判ってるよ。こめかみがペットボトルの水滴で濡れている。それが頬を伝って顎の先から落ちた。シャツに染みを作る。そっか、そう言って巣山は笑った。その後ろで煌々と光る照明が、眩しくて仕方がなかった。