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外道死すべし

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 億劫そうに上がった三井の手は、ぽん、と宮城の頭に置かれた。そのままぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、宮城が抗議するまもなく髪の毛が崩れる。視界が落ちてきた前髪でくぐもった。
「っ、ちょ、やめ」
「やめてほしきゃ、授業行け。こんなとこでサボってんじゃねーよ、おまえ」
 三井の声はまるで優しげで、昨日宮城のせいで上げた掠れた色や縋りつくような響きを思い出させるものは、その声の中には何もない。
「三井サンだってサボってんじゃないスか。何で俺ばっか授業行かなきゃいけねーの」
 ようやく三井の手を振りはらって、口を尖らせながら顔を上げると視線がぶつかった。強烈な音が耳の中で弾けて、それが自分の心臓の音だと宮城が気付くまでに少しかかる。
「俺はな、今日も部活出てーの」
「それが何スか。授業も出なよ、あんただって」
 三井はまたゆっくりと目を閉じながら、まるで独り言のように言う。
「体、痛ぇんだよ」
 喉の奥に途方もなく大きな空洞が突然空いたように、宮城は返す言葉を失った。三井の言葉はただ事実を告げているかのように淡々としていて、その原因を作った宮城を責めるでもなじるでもなく、かといって突き放しているわけでもない。何を言ったらいいのかわからないままに口を開いた宮城の歯列からこぼれたのは、結局力のない謝罪だった。
「…すんません」
「だーから。自惚れてんじゃねえっつの。てめーのせいじゃねえよ」
「でも、ごめん」
「でももクソもあるかっつの。ほれ、授業行けい」
 手で払うような三井の仕草は、この話が終わりだと明確に告げていた。三井の敷く境界線はわかりやすく、それ故に地面すれすれを掠めているて、乗り越えようと思えばいつでも乗り越えられる、そんな境界線だった。昨日は頭のネジも世界の輪郭も土足で踏みにじられて、見ることすらできなかったその境界が、今日はくっきりと引かれている。
 宮城は黙ったまま立ち上がった。三井の目は閉じられたままで、宮城がここに来た時と同じに眠っているようにも見える。昨日間近で見た三井の本当の寝顔を思い出そうとしたが、出来なかった。そのまま口の中で、じゃあとかまたとか意味のない言葉を呟いて踵を返す。踏み分けた雑草が足の下で折れた。
「なあ」
 背中から急に三井の声がかかった時、宮城はほとんど体育館の角を曲がりかけていた。
いつもの、少し意地悪げに皮肉さを装いたがる、その実、まっすぐな響きで三井は宮城に言葉を投げつける。
「おまえさ、宮城。おまえ俺に謝っけどよ、俺がおまえとヤりかったんだとは思わねーの」
 振り返ることは宮城には出来ない。世界が轟音を立てて崩れ落ち、誰も彼もが死んでしまうこの世の終わりが訪れたのではないかと思ったが、もちろん何も起こらなかった。未だ平穏、穏やかに死にゆくのか、それとも緩やかに再生しているのか、それすらもよくわからない世界の隅で宮城が体育館の角を曲がった瞬間に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


 翌日も空はげっそりするくらいに晴れ渡って、生徒達の学校に来る気力を殺ぎながら太陽だけは輝いた。ぎらぎらとねばつくような光を避けようとしても、窓際の宮城にはいたちごっこになってしまう。すっかり嫌気が差して、ホームルームもまだだと言うのに廊下にふらりと彷徨い出た。行くあてもないまま、踵を潰した上履きを引きずる。
「なあ、おまえ彩子とヤッたんだって?」
 下卑た声で急に後ろから肩を掴まれた。振り向けば、昨日の男といつもつるんでいる隣のクラスの名前も知らない誰かだった。二、三度わずかに言葉を交わしたことがあるかもしれない。たかがそれだけの繋がりをあてにしたような、その男の意味もなく近い距離に、宮城は嫌悪感さえ抱いた。
「なーどうなのよ。俺昨日聞いちゃったぜー。ついに卒業した訳、宮城も。どうだったよ彩子」
「おまえらってさぁ」
 自分の顔が意図せず笑うのを、宮城はどこか他人事のように感じていた。満面の笑みを浮かべながら、自分の肩を掴んだままだった男の手首をゆっくりと掴む。名前すら思い出せないようなこんな男に気持ちをかき乱されたのがひどく不快で、体の中にざらりとした黒いものが混じり込んだ。
「おまえらって、ほんっと、下衆野郎」
 頭がおかしいと罵られるのと下衆野郎と吐き捨てられるのとでは、どちらがより惨めだろうかと思いながら、宮城は指を男の手首に食い込ませていった。宮城の目の前の顔が急に情けなく歪んで、自分の手首を見つめている。自慢ではないが宮城の握力は、実を言えば部内でも一位二位を争う程だった。力を込めれば痣など簡単についてしまう。
 ぎりぎりと音が立つほどに骨に宮城の指が食い込んでから、ようやく男は我に返ったようにその腕を振りはらった。手首にはくっきりと指の跡がついている。
「何すんだよ、ただちょっと聞いただけじゃねえか!ふざけんじゃねえぞ宮城!」
「何もしてねぇよ」
「…っ、下衆野郎はそっちだろが!頭おかしいんじゃねえのかてめー!」
 醜く歪んで投げつけられた一方的な言葉には、男の自己憐憫や浅薄さが隠しようもなく浮いていた。しかし宮城は一瞬驚いたように目を見開き、それから急に、まるで嬉しくて溜まらないのだといった笑いを浮かべた。圧倒的に場違いな表情だった。
「そーなんだよ。俺、頭おかしいの。でもあの人もそうだから」
 呆気にとられた表情の男を置いたまま宮城はくるりと踵を返して歩き出した。五歩進んだところでとうとう走り出してしまう。急に霞がすべて晴れたようで、そうだ、おかしいのは俺だけじゃないのだ、と強く強く肺にそれが焼きついた。頭がおかしいとでも下衆野郎とでも好きなように言えばいい。恐れることなどないのだと急に強く感じ、どんな風に罵られようとかまわなかった。あの時沸き起こった衝動の結果を三井に謝る気はもう露ほどもなく、それどころか今日の残りの授業を頭の中で反芻して、出席日数がまだ余裕の教科ばかりだと確認する。三井サンもそうだといいんだけど、と宮城は口の端で少し笑った。力ずくにねじ伏せようと、歪んだ形で誘われようと、それでも退路はすでに断たれた。何をぐずぐずしていたのかと、血管が太陽の熱で沸き立つ。上履きのまま下駄箱から走り出ると足の下で砂利がざくりと叫んだ。
 三井が昨日最後に宮城に向かって告げた言葉は答えではない。何とでも罵ればいい。たとえ何を言われようと気にならない。宮城の速度はどんどん速まって、試合中よりも速く走れているような気さえした。景色がまとめて後ろに飛び去り、どこ行くのリョータ!と彩子の驚いたような声がどこかから聞こえたけれど、足は一向に止まらない。
 どこへ行くって?そんなもの決まっている。
 俺たちはおかしい。だけどそれが何だっていうんだ?
 体育館裏のあの角を曲がるまで、あと3秒だった。
作品名:外道死すべし 作家名:尾坂棚