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綾瀬しずか
綾瀬しずか
novelistID. 52855
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あゆと当麻~Memory~

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Memory

それは唐突に起こった。
記憶が亜由美の中からきれいさっぱり消えていた。

「当麻!」
珍しくうろたえた様子で迦遊羅が部屋に飛びこんできた。
当麻はまだ眠っている。
「起きてください。当麻。起きて」
迦遊羅が揺さぶる。
「あと、五分・・・」
などと当麻がむにゃむにゃ呟く。
「当麻! 姉様の記憶がなくなったのです」
その言葉を夢うつつに聞いていた当麻ががばっと起きた。
「何?」
それだけ言うと、亜由美と迦遊羅の部屋に飛んでいく。
亜由美はぼうぅ、とベッドの上で放心していた。
「あゆ! お前、また記憶なくしたって、本当か?」
当麻が亜由美の肩を掴む。
あの、と戸惑いながら亜由美が言う。
「私の名前、あゆと言うんですか?」
その言葉に当麻は言葉を失い、ベッドにつっぷした。

亜由美の記憶喪失はしばらく平和だった家中を騒然とさせた。

「お前、ほんっとに、なんにも覚えていないんだな」
額を抑え、当麻が軽くため息をついた。
大学病院の待合室である。
「心因性記憶喪失」
それが下された診断だった。
「何か大きなストレスを感じて一時的に記憶喪失になったのでしょう。
少し、穏やかな環境ですごさせたほうが良いですね」
東京の主治医は言った。
基本的な生活を過ごすことには支障はない。
ただ、今まであったことすべてがきれいさっぱり消えうせていた。
自分が誰なのか。今、目の前で額を抑えてうなっている青年はいったい誰か。
まったく亜由美はわからなかった。
「ともかく。家に戻ろう。戻ってから考えよう」
看護婦に指示を受けていたナスティが戻ってくるのを確認して、半ば自分に言い聞かすかのように当麻は言った。

戻ると亜由美はたちまちベッドの上の住人となった。
「安静第一」
これが指示された療法であったから。
心配そうな皆を部屋から締め出すと当麻はベッドの脇に椅子を引き寄せ、座った。
「とりあえず、必要なことを教えておく。まずは名前からだな」
当麻はノートを手にして河瀬亜由美と書いた。
「これが、私の名前?」
不思議そうにノートを見つめる。
「そう。俺達はあゆと呼んでいる。双子の妹、迦遊羅がかゆ、と呼ばれている」
それから、と当麻は一枚の写真を取り出した。
夏に皆でとった記念写真だ。
まずは自分を指差して当麻が言う。
「これが、俺。羽柴当麻」
それから順順に指差して名を教える。
一通り教えて当麻は考え込んだ。
一体、どこまで教えたらいいのやら。
あまり刺激しないほうがいいといわれている。
亜遊羅の部分はかなりハードだ。
落ち着いてから少しずつ話そう。
当麻は考えながらぽつり、ぽつり、知っている限りの亜由美の過ごしてきた人生を語り始めた。
「で、ここが最終ポイントだ。うれしいこと、楽しいこと、悲しいこと、つらいこと、なんでも話す。分からないことがあったら一緒に考えるって俺達は決めたんだ。だから俺は今、基本的にお前がびっくりしないようなことは包み隠さず話している。約束だからな。びっくりするようなことはおいおい話してやるから。安心しろ」
言って当麻は優しく亜由美の頭をなでる。
「急にいろいろ詰め込まれて混乱しているだろう? 今日はゆっくりしていたらいい」
そう言って当麻は部屋を引き上げた。
皆が心配そうに廊下でたむろしていた。
当麻の姿を見て皆が質問攻めにしようとしたのを軽く制して言う。
「とりあえず、喉かわいた。茶をいれてくれないか」

亜由美はぼうぅっと写真を眺めていた。
これが妹の迦遊羅。これがさっき教えてくれた、親戚の、それも許婚だと言う羽柴当麻。
こっちが迦遊羅の付き合っている真田遼で。
それから・・・。
そこまで教えてもらった名を反芻しているうちにふっと当麻の顔が浮かんだ。
許婚らしいけれど、親が決めたと言っていた。
彼は私のことが好きなのだろうか? 私はどうだったのだろう?
一番、心配していない様子だった。
皆、困惑したそれでいて悲しい表情をしていたのに対して彼は冷静だった。
ほんの少し困った、という風ではあったけれど。それもしょうがないなぁ、といった風だ。
頭をなでる大きな手がとても暖かかった。
なでられているうちに戸惑いも恐怖も何もかも薄れていくようだった。

そのとき、迦遊羅がそっと部屋に入ってきた。
えっと。この子が・・・。
写真と見比べる。
「あなたが迦遊羅さん、よね?」
さんづけしたとき、迦遊羅は少し悲しげな瞳をした。
亜由美は申し訳ない気持ちになる。
「かゆ、と呼んでください。妹なのですから。夕食です」
迦遊羅は傍らの椅子に座ると茶碗と箸を手渡す。
おかずの皿は迦遊羅が持ち、亜由美がそれをつつくと言う具合だ。
黙々と食事する。
なんと話せばいいかわからなかった。
ぎこちない雰囲気が部屋に漂う。
「おいしい・・・」
筑後煮を食べてぽつりと亜由美が呟く。
「今日は姉様の好物を伸が作ってくれたんです」
それを聞いた迦遊羅が言う。
伸、というと・・・。
写真を思い浮かべる。
「あの、優しそうなお兄さん?」
ええ、と迦遊羅が頷く。
そこから唐突にまた会話が途切れる。
長い沈黙の後、ご馳走様と言って亜由美は静かに箸を置く。
「それではゆっくり休んでください」
迦遊羅が出て行こうとするのに声をかけた。
「あの、伸さんにありがとうって言っておいてください」
はい、と言って迦遊羅はふわりと微笑んだ。

「どうだった?」
皿を下げに階下に降りた迦遊羅を見つけて伸が問う。
「筑前煮がおいしいと。それからありがとう、と言っていました」
「よかった。気に入ってもらえたんだね」
うれしそうに伸が顔をほころばせる。
当麻によって絶対安静、刺激しない、かといって腫れ物扱いしないという方針が言い渡されていた。それから亜遊羅の話は厳禁、と。
「今までの姉様ってどこかふてぶてしいところがありましたけれど、本当は繊細な傷つきやすい人だったかもしれませんね」
迦遊羅はそう言った。

幾日かして亜由美は皆と食事をとることにした。
記憶がないだけで別段、体がどこか悪いわけではないから、というのが理由だった。
絶対安静と言ってベッドに放りこまれた割にはあっさり、ベッドから解放された。
亜由美の事に関する決定権が当麻にあるのはすぐにわかった。
かといって亜由美を縛るわけではない。むしろ、一種放任主義ともいえるゆるやかさで自由にさせてく
れた。毎日、留守番してぼーっと一日を過ごす。毎朝、ナスティが朝食をつくり、皆の弁当を伸がつくる。その弁当を持って征士と当麻、迦遊羅がそれぞれ高校へいき、伸、ナスティは車で仕事場に行く。
昼は伸が作っておいてくれた弁当をテレビを見ながら食べる。
当麻と征士を夕方四時ごろ出迎え、その後、迦遊羅が帰ってくる。彼女は歴史探検部という部に所属しているらしい。
伸はアトランダムな時間に帰ってきて、夕食を作る。彼は大学に行きながら、高校で嘱託講師を務めているが、決まって五時には家にいた。
そうして六時には夕食が始まる。
ナスティは基本的に帰りが遅かった。はやくて六時、遅い日は夜中を過ぎる。
伸と同じ高校で嘱託講師をして担任を持っているせいだ。
皆と同じ時間を共有しているうちに、なんとなく人間関係が掴めてきた。
作品名:あゆと当麻~Memory~ 作家名:綾瀬しずか