あゆと当麻~Memory~
伸、当麻、征士は親友同士。皆の総保護者のナスティは征士と付き合っている。
当麻は自分の許婚だし、迦遊羅は彼らの別の親友、遼と付き合っている。
伸はフリーだ。
皆、亜由美に気遣う風はなかった。
初日の悲しそうな表情はどこにもなかった。
ただ、名を呼ぶときさんづけをしてしまうために少々悲しい思いをさせているようだったが。
夜、皆、洋間でテレビをつけながら談笑する。
こういう時、当麻はいつも亜由美のそばにいる。そうして困ったときには必ず、助け舟を出す。
その気遣いで亜由美はなんとか皆の中に入ることができた。
ただ、ときおり、自分がひどく場違いな気がする時がある。
皆がここにいない親友達の話を持ち出すときだ。
皆、思い出話に花を咲かせるが、自分は参加できない。
ひどくつらい。
そんな時、決まって当麻は亜由美を連れ出し散歩に出かける。
彼のさりげない優しさには頭が下がる思いがする。
この人のことだけでも思い出せたらいいのに、と切実に思う。
ある夜、歩きながら亜由美はぽつんと言った。
当麻さんだけでも思い出せたらいいのに、と。
彼は、思ってくれるだけでうれしい、静かに語った。
そうして日を過ごすうちに日に日に亜由美はつらくなる。
気遣いのない態度は余計に自分がどれほど大切にされていたか思い知るからだ。
思い出してその気持ちにこたえたいと思うのに思い出せない。
自分が大切にしていたであろう人々のことを思い出せない。
苛立ちが日々募る。
ある時、ついに亜由美は感情を爆発させてしまった。
「どうして・・・っ。思い出せないのっ。皆、大切にしてくれるのに、私だって大切にしたいのにどうして思い出せないのっ」
悔しそうに唇をかみしめ、涙をぼろぼろこぼした。
当麻が読書の手を止め、近づいてそっと肩を抱く。
「別にいまのままのあゆでいいんだ。思い出さなくてもこれから思い出を作ることはできるだろう? 今のあゆが皆を大切にしたいと思えば、それでいいじゃないか」
静かに当麻が語る。
でも、でも、と亜由美は激しくかぶりを振る。
思い出したい。大切な人々のことを。忘れたままだなんて自分が許せない。
ふぅ、と当麻が軽くため息をつく。
「俺達と離れて、どこか静かなところに行った方がいいな」
「どこへ行くのだ? 実家には戻れまい」
亜由美の知らない事情を知っているらしい征士が言う。
「そうなんだが。今は皆といっしょにいる方がつらいだろうからな。どこかいいところがあればいいが」
当麻が答える。
「僕の実家に行ってみるかい?」
伸が提案する。
「ちょうど実家に行く用事ができたんだ。僕の家なら本当に静かだし、今は母さんしか家にいないから」
そうか、と当麻がほっとする。
「それでは、悪いが伸、頼めるか?」
「いいよ。当麻も行くんだろう?」
さも、当然のように伸が言う。
「いや、俺が行ったら意味がないだろう。一人でゆっくり考え直す時間をやりたい。
それに一番新密度の高い俺と離れるのが一番かもしれない」
淡々と当麻が言う。そこにどんな感情が隠されているかはわからない。
「当麻?!」
皆が一様に驚く。
「今までてこでも離れなかったのが一体どういう風の吹き回しだ?」
征士が代表して問う。
「別に。こいつには時間が必要だし、俺もいいかげん、あゆ離れをしなくてはならないと思っただけだ。今まであんまりにも縛ってきた気がするからな。いい機会だと思う」
当麻が語り、おいおいと再び口を開いた。
「何も別れるとは言ってないだろう? これは俺んのだ。間違いなくな。
少しぐらい離れていても気持ちは変わらん」
あゆが新しい自分でもう一度はじめる気持ちになるのを助けたいだけだ、と亜由美の髪をくしゃっとなでて当麻は言った。
亜由美は当麻の優しさにどれほどこの人に想われているかを改めて思い知った。
次の日、亜由美は伸と共に車中の人となった。
「それじゃ、母さん。あゆのことよろしく」
そう言って伸は再び、東京へ戻る。亜由美は久しぶりに一人きりになった。
潮風が髪をなでる。
波の音に心が洗われるような気がする。
自分はずいぶん重い荷物を持っていたようだった。
当麻のでも皆との思い出ではない、なにか別のものを抱えていたようだ。
無我夢中で走りつづけてきたとなぜか自分は知っていた。
その糸が切れてしまったのだ。
心が解放されて軽くなる。
ここには思い出す必要なものはない。
しがらみもない。
素の自分でいられる。
自分が河瀬亜由美やあゆという人間かどうかはしらないが、今いる自分は間違いなく自分だ。
私が私でいること、がひどく大事な気がした。
その夜、亜由美はぼーっとしていた。
静かだ。
波の音が疲れきった心を癒す。
ふっと携帯が目につく。
手にしてメモリダイヤルをいじる。
さまざまな人の名前が続く。
迦遊羅。
秀。
純。
伸。
征士。
当麻。
遼。
ナスティ。
見覚えのあるものもないものも続く。
自分はこれだけの人の中で生きてきたのだと思い知らされる。
この人達とまたうまくやっていけるだろうか。
記憶をなくして新しい自分ではじめても皆、受け入れてくれるだろうか?
"大丈夫"
ふと当麻の静かな声がしたような気がした。
当麻のメモリダイヤルを見る。
彼らと離れるためにここに来たのにもう気になっている自分がいる。
亜由美は苦笑いする。
当麻の声が聞きたい。
優しい、だが、それだけでない自信に満ちたあの声が聞きたかった。
新しい自分をはじめる。
それが、自分に素直になるところからはじめても構わないだろうと思った。
パソコンに夢中になっていた当麻は机の上の携帯が光っているのに気がついた。
メールが入っている。
すかさず、チェックする。
あゆ、だった。着信時間は一時間前。
メッセージは短かった。
電話してもいい?、と一言だけ。
何かあったのだろうか。
眉根をよせながら、携帯を手にして階下へ降りる。
もう同室の征士は眠っている。恐ろしく朝の早い征士はその分、就寝が早い。
早々と夜、九時には眠る。
話すのなら別の場所でなくてはならない。
一時間も経過していることを考えるとあきらめて亜由美は眠っているかもしれない。
伺いの返信を出したほうが良いと思ったが、二度手間になると思って直接ダイヤルを発信する。
いや、二度手間になると思うのはこじつけだ。
まだ離れて一日もしないのに、ひどく気になる。顔が見たい。せめて声が聞きたい。
離れたほうがいいと自分で決めたのにがまんできない自分がいる。
馬鹿だな。俺も。
苦笑いしながら相手が出るのを待つ。
呼び出しが続いたかと思うと留守電に変わった。
やはり、眠っているか。
当麻はダイニングテーブルの上に携帯を投げ出し、組んだ両手の上に額を置いた。
亜由美ははっとして携帯を手にした。呼び出しに気づくのが遅かった。手にしてとたんに切れてしまう。
着信を確かめる。
当麻だ。
慌ててリダイヤルを押した。
当麻は着信音に気づくと誰かも確かめず、キィを押していた。
「あゆか」
亜由美は電話の向こうでいきなり名を呼ばれ驚いていた。
普通はもしもしからはじまると思っていたのだが。
「あゆ?」
当麻が再び、名を呼ぶ。
"あ、うん。起きてた?"
作品名:あゆと当麻~Memory~ 作家名:綾瀬しずか