闇を紡ぐ雨
あまりの暑さに、ふと目が覚めた。
ひと筋ふた筋、首筋をゆっくりと、汗が滑り落ちてゆく。
ぼくは、身じろぎ一つせず、目覚めたときのまま、ぼんやりと部屋の天井を眺めつづけた。
・・・・・・・・ここは、どこだろう。
ゆっくりと、目だけで部屋の中を追う。
ああ、そうか。
ここは、ぼくの部屋だ。
何の感情も呼び起こされることのないまま、ぼくはまた、天井に視線を戻す。
体に、力が入らない。
夏の名残の淀んだ空気に、押しつぶされてしまいそうだ。
褥に投げ出された腕も足も、まるで鉛のように重い。
このまま、どこか知らない所へ、深く深く沈み込んでゆくようだ。
ぼくは、抗うことができずに、もう一度、引き込まれるように目を閉じる。
「高彬」
さっきまで見ていた夢の中。
優しく、名前を呼ばれる。
・・・・ああ、瑠璃さん、そこにいたの。
勝手にどこかへ行っちゃ、だめじゃないか。どれだけ探したと思ってるの。
瑠璃さんは、ぼくの顔を心持ち見上げるようにして、とても幸せそうに微笑んでいる。
瑠璃さん。もう逃がさないよ。
あなたは、ぼくの恋人なんだから。
やっと手に入れた、たったひとりのひとなんだから。
だからいつでも、こうしてぼくの腕の中にいて。
ね・・瑠璃さん・・・
ぼくは泣きそうなほどに安堵して、目の前の華奢な身体を抱き締めようと、手を伸ばし――
弾かれたように、目を開ける。
瑠璃さんを求めて虚しく彷徨う手を、呆然と見つめた。
・・・・・辿り着けない。
あの笑顔にも、あの声にも、華奢な身体、綺麗な黒い髪、柔らかい頬、夢見るような唇・・・・・
瑠璃さんのすべてに、ぼくは辿り着けない。
のろのろと、両手で顔を覆う。
毎日毎日、自分の持てる気力を全て宮中で使い果たして、ぼくはこのがらんとした部屋で、死んだように眠る。
そしてまた、朝起きて出仕して、来る日も来る日も、その繰り返し。
瑠璃さんに逢えなくなってから、日に日にぼくは、現実感覚を失ってゆく。
ただただ、刷り込まれた意識に忠実に、自分の役目を果たすだけだ。
――そんな自分が、嫌になる。
どのくらい、あのひとに逢っていないんだろう。
こんなに長いあいだ逢わずにいるのは、もしかしたら初めてかもしれない。
瑠璃さんに出逢ったあの日から、ずっとぼくを照らしていた眩しい光が、急速に失われていく。
あんなに活き活きと見えていた景色が、立体感を失って、どんどん平板に、どんどん色褪せてゆく。
なに一つ、変わらないはずなのに。
ぼくの根底の一番大切なものが、こぼれゆく砂のように失われつつある、ただそれだけで、まるで知らない世界にいるかのように、全てが灰色がかって見える。
「必ず、瑠璃姫を動かせ」
どくん、と、大きく心臓が脈打つ。
平伏するぼくの上に無情に投げかけられた、有無を言わせぬ強いお言葉。
御使者の命婦が瑠璃さんに断られて帰ってくるたびに、ご気分を害されていらいらなさっておられる今上をお側で拝し、心苦しく思いながらも、ぼくはどこかで安堵していた。
瑠璃さんが、今上に靡かないでいてくれることに、心の底から、安堵していたんだ。
――――このまま、瑠璃さんを諦めて下さったなら。
どうか、どうか―――――――
今上のお側に控えながら、胸の奥で灼けつくように、そう願っていたのに。
ぼくはむっくりと起き上がり、片手でぐしゃぐしゃと、髪を掻きまわした。
熱を孕んだ桔梗色の闇が、すぐ近くまで忍び寄っている。
今上は、本気であられる。
本気で、瑠璃さんとの対面を望んでおられる。
このまま瑠璃さんが強い態度に出続けていれば、業を煮やされて入内をお考えになられるかもしれない・・・・
手のひらを額に当てたまま、固く固く、目を瞑る。
そうなったら、瑠璃さんは本当に、雲の上のひとになってしまう。ぼくの手の届かないひとになってしまう。
「高彬」
あの声で、ぼくの名前を呼んでくれるひとが、腕の中からいなくなってしまう。
そんなの、耐えられる訳がないじゃないか。
それくらいなら――――――――
ゆっくりと目を開けて、ぼくは衾を握る自分の手をじっと見つめた。
・・・・それくらいなら、一度は瑠璃さんを帝とお引き合わせしてでも、なんとか、せめて入内だけはないように・・・
形だけでも対面なさって、忍びやかにお語らいになれば、帝も満足されて瑠璃さんを解放して下さるかもしれない。
ぴくっと、指先が躍った。
――――――解放、して下さるだろうか・・・・?
あのひとの本当の姿をご存じの彼のお方が、長い間待ったあげくようやく邂逅した瑠璃さんを前にして、そのまま解放して下さるだろうか。
ぼくをぼんやりとした孤独から救ってくれたように、帝もまた、瑠璃さんに救われた思いでおられたとしたら。
そんな女性を、本当に手放して下さるだろうか。
ぼくは、都合のいい希望に、ただ縋っているだけなんじゃないのか・・・・
突然、倦んだようにほてった空気が動き出して、それまで気配もなかった風がそよぎだした。
どこからともなく水の匂いが漂って、と思う間もなく、密かごとを告げるように、忍びやかな雨が降り始める。
ぼくは、釣り灯籠の灯りに浮かび上がる夏の雨を、ぼんやりと見やった。
――瑠璃さんは、泣いていないだろうか。
降り注ぐ雨に、瑠璃さんの涙を思い出す。
気丈な割に脆いところのあるひとだから、何ヶ月もたった一人で帝の御使者と対峙して、今にも崩れ落ちそうに傷ついてはいないだろうか。
誰の目も届かない所で、ひとり、声を殺して泣いたりはしていないだろうか――――――――――
「泣いている時にひとりぼっちだったら、よけい悲しくなるじゃない。だれかそばにいて欲しいに決まってるじゃない」
突然、耳の奥に、瑠璃さんの言葉が鮮やかに甦った。
「あんたは冷たいのよ。高彬のばかっ!!」
ぼくはハッとして、身を覆っていた衾を払いのけた。
そのまま、銀の糸のように闇に降る雨を、凝視し続ける。
そうだ。
子供の頃、そうやって瑠璃さんになじられた事があった。
あのときぼくは、瑠璃さんの涙を知っていたのに、自分のことばかりにかまけて、ちっともあのひとを思いやってあげられなかった。
それを死ぬほど後悔したんだ。だから、これからさき瑠璃さんが泣いていたら、何度でも何度でもそばで慰めてやるんだ、そう自分に誓ったんじゃないか。
「瑠璃さん、泣かないで。寂しくなんかないよ、ずっとずっと、ぼくがそばにいてあげるから」
「ほんとに?ほんとにお約束する?ずっと一緒よ、離れちゃダメよ。瑠璃を残して死んだりしないでね」
「約束する。絶対に瑠璃さんを一人にしない。先に死んだりなんかしないよ。だから、もう泣かないで、瑠璃さん」
もう泣かないで、瑠璃さん―――――――――――――――――
ひと筋ふた筋、首筋をゆっくりと、汗が滑り落ちてゆく。
ぼくは、身じろぎ一つせず、目覚めたときのまま、ぼんやりと部屋の天井を眺めつづけた。
・・・・・・・・ここは、どこだろう。
ゆっくりと、目だけで部屋の中を追う。
ああ、そうか。
ここは、ぼくの部屋だ。
何の感情も呼び起こされることのないまま、ぼくはまた、天井に視線を戻す。
体に、力が入らない。
夏の名残の淀んだ空気に、押しつぶされてしまいそうだ。
褥に投げ出された腕も足も、まるで鉛のように重い。
このまま、どこか知らない所へ、深く深く沈み込んでゆくようだ。
ぼくは、抗うことができずに、もう一度、引き込まれるように目を閉じる。
「高彬」
さっきまで見ていた夢の中。
優しく、名前を呼ばれる。
・・・・ああ、瑠璃さん、そこにいたの。
勝手にどこかへ行っちゃ、だめじゃないか。どれだけ探したと思ってるの。
瑠璃さんは、ぼくの顔を心持ち見上げるようにして、とても幸せそうに微笑んでいる。
瑠璃さん。もう逃がさないよ。
あなたは、ぼくの恋人なんだから。
やっと手に入れた、たったひとりのひとなんだから。
だからいつでも、こうしてぼくの腕の中にいて。
ね・・瑠璃さん・・・
ぼくは泣きそうなほどに安堵して、目の前の華奢な身体を抱き締めようと、手を伸ばし――
弾かれたように、目を開ける。
瑠璃さんを求めて虚しく彷徨う手を、呆然と見つめた。
・・・・・辿り着けない。
あの笑顔にも、あの声にも、華奢な身体、綺麗な黒い髪、柔らかい頬、夢見るような唇・・・・・
瑠璃さんのすべてに、ぼくは辿り着けない。
のろのろと、両手で顔を覆う。
毎日毎日、自分の持てる気力を全て宮中で使い果たして、ぼくはこのがらんとした部屋で、死んだように眠る。
そしてまた、朝起きて出仕して、来る日も来る日も、その繰り返し。
瑠璃さんに逢えなくなってから、日に日にぼくは、現実感覚を失ってゆく。
ただただ、刷り込まれた意識に忠実に、自分の役目を果たすだけだ。
――そんな自分が、嫌になる。
どのくらい、あのひとに逢っていないんだろう。
こんなに長いあいだ逢わずにいるのは、もしかしたら初めてかもしれない。
瑠璃さんに出逢ったあの日から、ずっとぼくを照らしていた眩しい光が、急速に失われていく。
あんなに活き活きと見えていた景色が、立体感を失って、どんどん平板に、どんどん色褪せてゆく。
なに一つ、変わらないはずなのに。
ぼくの根底の一番大切なものが、こぼれゆく砂のように失われつつある、ただそれだけで、まるで知らない世界にいるかのように、全てが灰色がかって見える。
「必ず、瑠璃姫を動かせ」
どくん、と、大きく心臓が脈打つ。
平伏するぼくの上に無情に投げかけられた、有無を言わせぬ強いお言葉。
御使者の命婦が瑠璃さんに断られて帰ってくるたびに、ご気分を害されていらいらなさっておられる今上をお側で拝し、心苦しく思いながらも、ぼくはどこかで安堵していた。
瑠璃さんが、今上に靡かないでいてくれることに、心の底から、安堵していたんだ。
――――このまま、瑠璃さんを諦めて下さったなら。
どうか、どうか―――――――
今上のお側に控えながら、胸の奥で灼けつくように、そう願っていたのに。
ぼくはむっくりと起き上がり、片手でぐしゃぐしゃと、髪を掻きまわした。
熱を孕んだ桔梗色の闇が、すぐ近くまで忍び寄っている。
今上は、本気であられる。
本気で、瑠璃さんとの対面を望んでおられる。
このまま瑠璃さんが強い態度に出続けていれば、業を煮やされて入内をお考えになられるかもしれない・・・・
手のひらを額に当てたまま、固く固く、目を瞑る。
そうなったら、瑠璃さんは本当に、雲の上のひとになってしまう。ぼくの手の届かないひとになってしまう。
「高彬」
あの声で、ぼくの名前を呼んでくれるひとが、腕の中からいなくなってしまう。
そんなの、耐えられる訳がないじゃないか。
それくらいなら――――――――
ゆっくりと目を開けて、ぼくは衾を握る自分の手をじっと見つめた。
・・・・それくらいなら、一度は瑠璃さんを帝とお引き合わせしてでも、なんとか、せめて入内だけはないように・・・
形だけでも対面なさって、忍びやかにお語らいになれば、帝も満足されて瑠璃さんを解放して下さるかもしれない。
ぴくっと、指先が躍った。
――――――解放、して下さるだろうか・・・・?
あのひとの本当の姿をご存じの彼のお方が、長い間待ったあげくようやく邂逅した瑠璃さんを前にして、そのまま解放して下さるだろうか。
ぼくをぼんやりとした孤独から救ってくれたように、帝もまた、瑠璃さんに救われた思いでおられたとしたら。
そんな女性を、本当に手放して下さるだろうか。
ぼくは、都合のいい希望に、ただ縋っているだけなんじゃないのか・・・・
突然、倦んだようにほてった空気が動き出して、それまで気配もなかった風がそよぎだした。
どこからともなく水の匂いが漂って、と思う間もなく、密かごとを告げるように、忍びやかな雨が降り始める。
ぼくは、釣り灯籠の灯りに浮かび上がる夏の雨を、ぼんやりと見やった。
――瑠璃さんは、泣いていないだろうか。
降り注ぐ雨に、瑠璃さんの涙を思い出す。
気丈な割に脆いところのあるひとだから、何ヶ月もたった一人で帝の御使者と対峙して、今にも崩れ落ちそうに傷ついてはいないだろうか。
誰の目も届かない所で、ひとり、声を殺して泣いたりはしていないだろうか――――――――――
「泣いている時にひとりぼっちだったら、よけい悲しくなるじゃない。だれかそばにいて欲しいに決まってるじゃない」
突然、耳の奥に、瑠璃さんの言葉が鮮やかに甦った。
「あんたは冷たいのよ。高彬のばかっ!!」
ぼくはハッとして、身を覆っていた衾を払いのけた。
そのまま、銀の糸のように闇に降る雨を、凝視し続ける。
そうだ。
子供の頃、そうやって瑠璃さんになじられた事があった。
あのときぼくは、瑠璃さんの涙を知っていたのに、自分のことばかりにかまけて、ちっともあのひとを思いやってあげられなかった。
それを死ぬほど後悔したんだ。だから、これからさき瑠璃さんが泣いていたら、何度でも何度でもそばで慰めてやるんだ、そう自分に誓ったんじゃないか。
「瑠璃さん、泣かないで。寂しくなんかないよ、ずっとずっと、ぼくがそばにいてあげるから」
「ほんとに?ほんとにお約束する?ずっと一緒よ、離れちゃダメよ。瑠璃を残して死んだりしないでね」
「約束する。絶対に瑠璃さんを一人にしない。先に死んだりなんかしないよ。だから、もう泣かないで、瑠璃さん」
もう泣かないで、瑠璃さん―――――――――――――――――