闇を紡ぐ雨
寄せるばかりで引かない波のように、後から後から記憶が押し寄せてくる。
ぼくは力なく項垂れながら、自嘲気味の笑みを漏らした。
いつも、こうだ。
色んな思惑に囚われて、自分の使命に埋もれて、ぼくは心の奥の大切なものを、いつもいつも見誤ってしまう。
力なく投げ出された手のひらを、もう一度見つめる。
あのときのぼくは幼すぎて、瑠璃さんの小さな手を握って指切りをするのが精一杯だった。
だけど、今は。
今のぼくは、あの頃の、ただそばで慰めることしか出来なかった子供じゃない。
あの満開の桜の木の下で瑠璃さんと出逢ったときに。
「あんたって、グズね。のろまっ子」
呆れたように瑠璃さんがそういった、あのときに。
あの瞬間に、ぼくは恋に落ちたんだ。
瑠璃さんは、ぼくの心の奥にある守れない場所に、鮮やかに飛び込んで来た。
そして今も、なに一つ変わることなく、あのひとはぼくの一番大切な場所に住みつづけているんだ。
そんなひとを失ったまま、ぼくはこの先の人生を生きていくのか?
こんな色のない薄墨の世界を、たった一人で生きていくんだろうか。
ゆっくりと、立ち上がる。
固く目を瞑り、身体中の空気を吐き切るように、長い長い息を吐く。
そんなことは、させない。
瑠璃さんを、誰にも渡しはしない、たとえそれが――――――今上であっても。
「あたしを奪い取ってよ」
―――――――瑠璃さんの声が、こだました。
ぼくは静かに目を開けて、闇に映える灯りをじっと見つめた。
瑠璃さん。あなたを奪いにいくよ。
なにもかもを捨てて、あなたをぼくのものにする。
あなたは、驚くだろうか。
今さら遅いと、ぼくを詰るのかな。
それともまさか、本当に攫いに行くとは思ってもいないかもしれないね。
だけど、もうだめだ。逃げられないよ、瑠璃さん。
だってぼくは、心を決めてしまったんだから。
ぼくはあなたに、堕ちていくんだから・・・・・・・
突然、篠突くように雨が激しくなった。
恵の雨か、不穏の予兆か。
どちらでも、もう構わない。
ぼくはゆっくりと体の向きを変えて、几帳に掛けた衣に手を伸ばした。
※※※※※※※※※※※※
「高彬さま・・・・・」
小萩は、びしょ濡れで現れたぼくを見て呆然と呟いた。
そのまま、袖で口元を押さえて絶句する。
手燭の弱々しい灯りが、薄闇の中で頼りなげに揺れていた。
「瑠璃さんを、攫いにきたよ」
ぼくは微笑みながら、そういった。
大きく見開かれた目に、みるみる涙が浮かんでくる。
長いあいだぼくの訪れが絶えたことで、小萩もきっと、心を痛めていたに違いなかった。
「悪かったね、小萩。こんなに遅くなって」
「いいえ、いいえ・・・・・」
小萩は、感極まったように、いいえいいえ、と、それだけを繰り返して、ゆっくりと頭を振った。
「瑠璃さんは」
「・・お部屋に・・・」
部屋へ向かおうと、夏闇に包まれた簀子へと踵を返したぼくの背に、
「高彬さま!」
小萩が慌てて呼びかけた。
「これを・・・・」
そういって、胸元からクシャクシャになった料紙をそっと取り出す。
受け取った文を広げて、ぼくは目を見張った。
瀬を早み かこのかじ絶え ゆく舟の
泊まりはなどか 我知りぬべき
「―――――御使者の前で、姫さまが高彬さま宛にお書きになったお歌ですわ」
言葉を失ってじっと見入るぼくに、小萩が囁くようにそう告げた。
「お届けしなくても良いと、姫さまはおっしゃったのですけれど・・・ここに書かれたお歌は紛れもなく姫さまのご本心のように思われて、どうしても反故にすることが出来ませんでしたの」
ぼくは、小萩の言葉を最後まで聞き届けることなく、その場を駆け出した。
瑠璃さん。
ごめん、ごめんよ。
もう決して、ひとりにしないから。必ず、ぼくがあなたを守るから。
ぼくの全てを、あなたにあげるから。
だから、だからどうか、ぼくをあなたのそばにいさせて。
お願いだ、瑠璃さん。
御簾の向こうに、ぼんやりと脇息にもたれる瑠璃さんの姿が浮かんだ。
まるで人形のように身じろぎ一つせず、瑠璃さんは虚空の闇を見つめ続けている。
涙でこごった瞳が、ゆっくりと閉じられた。
「・・・・泊まりはなどか 我知りぬべき・・・・」
瑠璃さんは、弾かれたように顔を上げ、御簾のこちらを見た。
「高彬・・・・」
そう言って、脇息から身を起こした格好のまま、茫然とぼくを見つめて言葉を失った。
二人の間を隔てる御簾が、風に舞うように踊り上がる。
ぼくは構わず大股で瑠璃さんのもとに近づくと、向かい合って静かにひざを着いた。
白い頬に乱れかかる長い髪を、黙ってそっと、掻き上げる。
信じられないようにぼくを見つめる瑠璃さんの頬は、今まで見たことがないくらい面やつれしていて、つきん、と、胸が痛んだ。
「どうして・・・」
「瑠璃さんを、さらいに来た」
ほっそりとした手を握りしめ、夜露を含んだように煌めく双眸をまっすぐに見据えてそう言うと、切なそうに歪んでいた瞳から、みるみる力が抜けてゆく。
「本気、なの・・・?」
瑠璃さんは、子供のような声で呆然と呟いた。
「本気だよ」
瞳を逸らすことのないままで、ぼくは静かに、そう答える。
刹那、瑠璃さんは、ハッとしたように、ぼくの膝に縋りついた。
「だけど!そんなことをしたら、あんたの将来が・・・高彬は出世頭じゃない!!」
「瑠璃さん」
ぼくは、膝に置かれた小さな手に、そっと自分の手のひらを重ねた。
「さらって逃げてって、いったじゃないか。あれは冗談だったの?」
大きな目が、ゆっくりと見開かれる。
瞳に少しずつ、強い光が差し込んでくる。
「-本気よ」
凛とした声で、そう答えると、瑠璃さんは真っ直ぐな目で、ぼくをじっと見上げた。
「高彬。あたしを、さらって逃げて」
ひと言ひと言、噛み締めるように、確かな声で瑠璃さんはいう。
こんなときなのに、自然と笑みがこぼれる。
瑠璃さんのこういうところが、ぼくはたまらなく好きなんだよ。
「仰せのままに。瑠璃姫」
柔らかい頬に手を添えて微笑みながら答えると、ふっと涙を浮かべて、瑠璃さんは、主に巡り合った迷い犬のように、夢中でぼくにしがみついた。
「あんた、ばかね。あたしのために、こんなこと・・・。出世頭のお坊ちゃんのくせに」
嗚咽まじりの声が、耳元に心地よく流れ込んでくる。
「仕方ないさ。ぼくは、そのままの瑠璃さんを、好きになってしまったんだから」
からかうようにそう言って、腕の中の驚くほどに華奢な身体を、力の限り抱き締めた。
瑠璃さん。
ぼくは、あなたが好きなんだ。