老人と妖精
あの非日常の日々、に首探しなんて不毛は置いてきたのだと、信じうるに足る長い平穏が続いていた。永遠に思える平和に、もう戦闘や喧嘩や神経を尖らせるすべては鈍っていて、のみならず肌に寄る皺や、軋む骨、白く染まった髪、弱る筋肉に退化する脳、岸谷は自分の老いた身体があと一年も持たないと知っていた。七十八歳の、春。
一昨年、折原が死んだ。誰よりもしぶとく生きそうな男も死に際はあっさりしたものだった。数少ない友人の末期に、岸谷は手を尽くしたけれど、老衰に何を打つ手があろう? 彼の葬式で、未だに姿勢の綺麗な平和島が静かに涙を落としていた。二人とも結局最後まで家庭を持たず、もっとも素敵なパパなんて演じている折原も平和島も気味が悪い、若い頃みたく殴り合いまでいかないまでも、ずっと性質の悪い喧嘩をしていた。穏やかに、転がる石だっていつかは速度を緩めるように、輝かしく若い、いわば青春と言ったってなんら語弊を生じないあの日々は終わってしまった。もうすぐ岸谷だって死ぬ。あの平和島の強靭な肉体であっても、数年すれば脳がやられて終わるのだろう。人間はいつか死ぬ。明白な事実を、闇医者の知識をもって、一人の平凡な人間として七十八年も生きて、岸谷は受け入れていた。しかしただ一人、それを受け入れられない者が居た。
「新羅、晩御飯は何が良い?」
セルティ・ストゥルルソンは、輝く青春そのままの姿で、厳然と、存在していた。
折原が死んで、翌日、セルティは家を空けた。昔を彷彿とさせる、バイクのいななき。仕事でもなく一日留守にするなんて、もう何十年とない事態であった。深夜帰ってきた彼女に尋ねる、何をしていたの、すると彼女は答えにくそうにはぐらかして、シャワーを浴びてくる、と首を振ったのである。岸谷が分からない筈はない。とっくに諦めたと、それは彼女の発言である上に、おそらく彼女自身もつい先日まで信じていた、首なんて無くたって幸せに日々を過ごしていた、のに、彼女はまた己の首を探す不毛を始めたのだ。それから二年、彼女はバイクをふかし、あの青春を再生するように、岸谷を置き去りにして街を駆ける。止めるには、様々な画策をするには岸谷は余りに老いていた。
「肉じゃがとかどうだい」
「分かった」
長年の間に、彼女の料理の腕は上がった。彼女の作ったものなら何でも美味しいとは思うけれども、一般的な意味で誰に食べさせても遜色の無いものを作れるようになった。いつだったか、五十路も半分を過ぎた辺りからか、成長する彼女とは反対に岸谷は衰えていくようになった。決して彼女は衰退に叱責などしない、けれどもそこにある悲しさは隠せない。いつだって彼女は恐怖していた、岸谷が死ぬこと、残されて、一人で生きていかねばならないこと。
一昨年、折原が死んだ。誰よりもしぶとく生きそうな男も死に際はあっさりしたものだった。数少ない友人の末期に、岸谷は手を尽くしたけれど、老衰に何を打つ手があろう? 彼の葬式で、未だに姿勢の綺麗な平和島が静かに涙を落としていた。二人とも結局最後まで家庭を持たず、もっとも素敵なパパなんて演じている折原も平和島も気味が悪い、若い頃みたく殴り合いまでいかないまでも、ずっと性質の悪い喧嘩をしていた。穏やかに、転がる石だっていつかは速度を緩めるように、輝かしく若い、いわば青春と言ったってなんら語弊を生じないあの日々は終わってしまった。もうすぐ岸谷だって死ぬ。あの平和島の強靭な肉体であっても、数年すれば脳がやられて終わるのだろう。人間はいつか死ぬ。明白な事実を、闇医者の知識をもって、一人の平凡な人間として七十八年も生きて、岸谷は受け入れていた。しかしただ一人、それを受け入れられない者が居た。
「新羅、晩御飯は何が良い?」
セルティ・ストゥルルソンは、輝く青春そのままの姿で、厳然と、存在していた。
折原が死んで、翌日、セルティは家を空けた。昔を彷彿とさせる、バイクのいななき。仕事でもなく一日留守にするなんて、もう何十年とない事態であった。深夜帰ってきた彼女に尋ねる、何をしていたの、すると彼女は答えにくそうにはぐらかして、シャワーを浴びてくる、と首を振ったのである。岸谷が分からない筈はない。とっくに諦めたと、それは彼女の発言である上に、おそらく彼女自身もつい先日まで信じていた、首なんて無くたって幸せに日々を過ごしていた、のに、彼女はまた己の首を探す不毛を始めたのだ。それから二年、彼女はバイクをふかし、あの青春を再生するように、岸谷を置き去りにして街を駆ける。止めるには、様々な画策をするには岸谷は余りに老いていた。
「肉じゃがとかどうだい」
「分かった」
長年の間に、彼女の料理の腕は上がった。彼女の作ったものなら何でも美味しいとは思うけれども、一般的な意味で誰に食べさせても遜色の無いものを作れるようになった。いつだったか、五十路も半分を過ぎた辺りからか、成長する彼女とは反対に岸谷は衰えていくようになった。決して彼女は衰退に叱責などしない、けれどもそこにある悲しさは隠せない。いつだって彼女は恐怖していた、岸谷が死ぬこと、残されて、一人で生きていかねばならないこと。