老人と妖精
夕焼けのにじむ部屋、キッチンではエプロンを付けた彼女の後姿。引越しは二度した。一度目は警察に入られそうになって、二度目は上階の水漏れが原因で。今のマンションに越してきたのは三年ほど前だ。だが池袋からは結局離れられなかった、彼女が首の気配から遠ざかるのを嫌がったから。生前の折原が所有していた、その事を岸谷は知っていた、しかし彼の死後、首がどこにあるのか誰も知らない。折原は入念に隠してしまったようで、例えば秘書であった矢霧波江が見つけ出して持ち去ったか、その弟の誠二が積年の思いを果たして手に入れたかも知れないし、その他の勢力が掠め取った可能性だって優にある。岸谷が調べる術はもう絶たれていた。夕食を作って、岸谷が食べる横で世間話をして、洗い物が終わればまた彼女は首を探しに行くのだろう。いっそ、自分が死んだ後にしてくれれば、不謹慎ながら岸谷は思う。もう長くない命、その全てを彼女と一緒に過ごしたい、些細な願いも我侭でしかない。この不変に美しい背中を、死の間際まで見ていたれたら、それだけで岸谷は十分だというのに! 包丁でじゃがいもの皮をむく彼女を、岸谷はおもむろに抱きしめる。
「セルティ、もう、どこにも行かないでよ」
岸谷の衰え、震える身体を、仕方ない奴だな、彼女がぎゅっと抱きしめる。瑞々しい肌。傷ついてもすぐに回復する皮膚。ライダースーツから覗く張りのある胸の谷間。あと何年もせず死にゆく身とは反対の、妖精としての具現。この全てを手に入れたと傲慢していた、しかし永遠なんて存在しなかった。岸谷は普通の人間で、所詮この世のものではない彼女と結ばれる事態すら許されない。幻を真実だと、夢ではないと捕まえて紐をつないで、飼い殺しにして優越して居たかった。そんな馬鹿げた人生を、馬鹿げたままに終わらせたかった。
「医者として断言する、僕は直に死ぬよ」
残された少しの時間を、一緒に過ごしたい。彼女の肌を感じて、寄り添って、ただ居られればそれ以上は望まない。セルティ・ストゥルルソン、奇跡のようなその存在を、最期の時まで信じていたい。死期は段々と近づいている。受け入れはしても恐怖は止まない。もし、彼女のいない間に自分が倒れたら、考え出すと無限に出てくる、もし、を繰り返しては吐き気がする。せめて、死に場所は彼女の腕の中が良いと、それさえも傲慢なのか。気付けば泣いていた、夕日に焼ける部屋、冷えるフローリング、皺だらけの手を包む、温かな体温。カタカタという音に、俯いた顔を上げる。白い壁紙が赤くて、それはいつか見たあの赤色、青春の日々、それをもう自分は回想しか出来ない。
「どこかに行くのは、お前だろう」
淡々と、PDAから音声が流れた。彼女が打ち込んだ古い携帯端末。技術が上がって、新しい機器が出ても、バージョンアップさせ改良しただけで、彼女は頑なにこれを使い続けている。岸谷は、きしむ筋肉を動かし、彼女の背中を解放する。足がふらつかない日なんてもう無いのだろう、夕焼けに染まるライダースーツ、向かい合って、見合って、揺れる影、おそらく彼女も泣いている。
「だから、私はせめて、お前が居る間に首を見つけて」
帰ればおかえりと言う安心がある内に、辛いと泣きつける胸がある間に、彼女は首を探し出したかった、首なしのままでは、出来ないただ一つの行為をなすために。いつかの過去を岸谷は思い出す、彼女に首を締め上げられて、秘密をばらしたあの夜。始めて心を通わした、プロポーズの真似事をして、恋人という関係になった、あの時彼女はこう言った、死の核を自分で管理したい、と。