老人と妖精
「新羅、私は、お前と一緒に」
今度は彼女から抱きついてきた。受け止めきれず、その場に尻餅を付く、影で支えられて衝撃は無い。情けないと唇を噛む、いつだって岸谷よりもずっと彼女が強くて、守られてばかりだ。子供の頃から、こんな老人になってまで。
彼女の腹にメスを入れて、流れた血に魅了され、一緒に暮らして、小学校で平和島に会い、彼女以外の化け物を知って、中学校で折原に会い、人間にはかくも醜い面があると性悪説を思い知り、高校では喧嘩と流血といわゆる青春みたいな底抜けに明るい日々、大人になれば闇医者稼業で、変わる岸谷の隣で、いつも彼女は変わらず、そこに在った。やがてあの日の父の歳を抜き、寄る皺と曲がる背中、張りを失った肌を恐れていたのは岸谷ではなく、いつだって彼女だ。残されていく、時間軸を異にした存在の、恐怖を岸谷は知りえない。その底の見えない孤独の影は、いつか岸谷が死んだ後、彼女を確実に飲み込むのだろう。
夕日が彼女の落ちない涙を焼く。岸谷は、彼女の存在しない首に指をかけた。揺れる影が、夕焼けにぼやける。この老いて節だった皺だらけの手であっても、彼女が首を有して、そのまま力を入れれば、もしくは心中さえも可能であろう! 闇が、赤色の夕焼けと混じる。あの夜は、街のネオンがきらきらと、光り輝く未来があった、生きたいと願って首を探した青春を、彼女は確かに覚えているだろう。何度戻りたいと願っても、二度と手に入らない、あの輝かしい日々とは全く逆の意味で、彼女は首を求めている。岸谷に、その首を絞められる、最期を。赤い部屋がまぶたを焼く、彼女にはこの光景はどう認識されるのか、長く一緒に居たのに未だ判然としない、岸谷だって、もっと長く生きられたら、と思う。叶わないのなら、せめて一緒に死ぬことが出来たなら。止まらない震えを隠せもせず、老いた指が、存在しない首を、静かに、締める。音も無く暮れなずむ陽。赤く染まる、影が重なって、揺れた。
「君は、一人で、生きるんだ」
締めた指は、そのまま力なく落ちた。幸せなんて程遠く、不幸に近い一般論が、確かに今手に入れられる最善だ。しかるに首は存在しない。その不幸な最善でさえ、二人には叶わない、夢。
「僕の居ない世界で、一人で、生きるんだ」
優しい嘘は、あの戦争の日々に置いて来た。もう二度と手に入らない青春を、岸谷は確かに今、抱きしめている。