no title
玄関の扉の開く音がして、孤爪はディスプレイから顔を上げた。
雑に靴を脱ぎ捨てた音。廊下を大股で歩く音。台所の母親に帰ったことを告げる声。そして今、階段を昇る足音が、まっすぐに近づいてくる。
足取りは少し重たい。疲れているのだろう。こんな時間まで居残って練習していたのだから、当然といえば当然だ。
(バレーにだけは手を抜けないの、クロの悪いところだよ)
きっと、同じバレー部の仲間でこんなことを思うのは、自分だけなのだろう、ということは自覚している。
だからと言って、否定したいわけでもない。それらも全部ひっくるめて、彼は孤爪にとって、たったひとりの幼なじみだった。
ガチャ、と音を立てて扉が開き、部屋の主が顔を出す。
彼は自分のベッドの上に座る孤爪の姿を見つけて、驚いたように目を丸くした。
「おかえり、クロ」
膝を抱えてゲーム機を持ったまま出迎えると、彼はパチパチと瞬きをする。
「研磨。来てたのか」
「おばさんに言って、上がらせてもらった」
「さっき声かけたのに何も言われなかったんですけど」
階段の下を見やりながら、黒尾は苦笑いを浮かべる。
孤爪とは小学校に上がる前からの付き合いで、当たり前のように互いの家に出入りしてきた。おかげで長じた今になっても、兄弟か親戚の子供のような扱いを受けている。
黒尾は担いでいたバッグをどさりと床に置くと、襟元のネクタイを引き抜きながら、自分の机の椅子に腰を下ろした。
「で、どーしたの。お前から来んの、珍しーじゃん」
「ちょっとクロに訊きたいことがあって」
「何だよ、改まって」
おかしそうに笑った黒尾の表情を注意深く伺いながら、孤爪は用意していた問いを口にした。
「よく眠れるおまじない、って何?」
「おまじない?」
思いがけない単語に、黒尾は一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。
しかし、数秒してから、何かに思い至ったのだろう。ハッとしたように目をみはった。そして、孤爪に向かって何事かを問いただそうと口を開きかけたものの、結局は、喉まで出かかっていたであろう言葉を飲み込み、沈黙してしまった。
(大体、予想通りの反応……)
孤爪の口から出てきたそのフレーズが灰羽から伝わったものであることを、黒尾はすぐに理解したようだ。つまり、それが何を意味するのか知っている者は、黒尾と灰羽しかいない、ということである。
そして、その二人ともが、それは何かというい問いに対して即答できずに沈黙した。沈黙の理由自体は微妙に違うようだが、どちらにせよ、他人に言うのは些かはばかられるものなのだろう。
黒尾は沈黙しながら、今、孤爪の口からそのフレーズが飛び出したことの意味を考えている。
おそらくは、タイミングも重要な意味を持つのだ。後でも、先でもなく、今であった理由。――そんなことを考えながら、孤爪は黒尾の反応をじっと待った。
やがて黒尾は、孤爪の観察するような視線に気づくと、口元を片手で覆いながら、どこか困惑しているような、奇妙な笑みを浮かべた。
「――あ〜……。そうか。……あいつ、何て言ってた?」
あいつ、とは当然ながら灰羽のことだろう。
「何も。……どう言えばいいのかわからなくて、困ってるみたいだった」
「なるほどな」
一人で勝手に納得したような反応に、何がなるほどだよ、と心の中で毒づく。しかも、心なしか機嫌が良くなっているのが見てとれて、余計にうんざりする。
「それで、お前はあいつに何か言ったわけ?」
「……別に」
ぼそりと答えて、孤爪は中断していたゲーム機の電源を入れる。
ディスプレイを覗き込むために俯くと、黒尾は椅子から立ち上がり、孤爪の隣に座り直した。その弾みで、スプリングが、ぎしりと音を立てて揺れる。
「怒ってる?」
へらりと薄く笑って、黒尾がこちらを覗き込む。
何かを誤魔化そうとしている、薄っぺらで胡散臭い笑みだ。孤爪は横目でそれを一瞥し、その向こう側に透けて見えるものに、すっと目を眇めた。
長い付き合いなのも、善し悪しだ。こういうとき、相手が何を考えているのか、大体想像がついてしまう。それが都合の良いこともあるが、鼻につくことも少なくない。
「怒ってほしいの? 何に対して?」
はねつけるように、あえて冷ややかに返す。
黒尾は先ほどの笑みを消し、少し驚いたように目をみはった。それさえもいちいちわざとらしい、と孤爪は苛立ちを募らせる。
(ああ……。けど、これもクロの思惑通りか)
孤爪の感情を波立たせるものは、それほど多くはない。
たった今、自分が抱いた苛立ちの理由について考えながら、孤爪は自分の中で波立っていたものが、次第に凪いでいくのを感じる。結果があれば、そこには必ず理由もある。例えそれが、自分自身の感情であってもだ。
「とにかく、俺を面倒ごとには巻き込まないで。あとはクロの好きなようにしたらいいよ。俺には関係ないし」
すべては黒尾の蒔いた種だ。
黒尾と灰羽の間にある秘密が何であっても、自分の平穏が保たれるのならば、孤爪にとってはどうでもいいことだ。知る必要はないし、殊更知りたいとも思わない。
なまじ親しい者同士のことだからこそ、知らない方がいいこともあるのだ。
だが、孤爪が言いたいことを言ったのでゲームを再開しようとした瞬間、しばらく無言だった傍らの黒尾が、突然がばっと抱きつくようにして圧し掛かってきた。不意を打たれた孤爪は、逃れる隙もなく、そのままベッドの上に押さえ込まれるような格好となった。
「……っ、ちょっと! クロ!」
黒尾の二の腕が、がっちりと孤爪の首回りを固めているせいで、身動きができない。抗議の意味を込めて名前を呼ぶと、彼はベッドに突っ伏していた顔を半分だけ起こし、孤爪の顔のすぐ横で、にやりと笑った。
「いーじゃん。ちょっとくらい、巻き込まれろよ」
どうやら、先ほどの言い方がお気に召さなかったらしい。いじけるにしても、もう少し遣り様があるのではないか、と孤爪はベッドに仰向けに転がされたまま、深々と溜め息を吐く。
「やだよ……。めんどくさい」
「そーゆーこと言うなってば」
「ていうか、自分の体重忘れてない? 本気で重いんだけど」
自由な足で、げしげしと黒尾の足を蹴りつけると、痛いって、と笑いながらも、黒尾は少しも離れる気配がない。
(もう、こういう甘え方するような歳でもないでしょ)
黒尾だって、そんなことはわかっている。わかってはいるが、こうでもしなければ、何かのバランスが取れないのだ。
そして、こんな独り善がりな甘え方を許してくれるのが孤爪しかいないことも、黒尾は全部わかっている。
(……だから質が悪いんだよ、クロは)
自分の場合、物心つく前からの付き合いだから、こういうものだと思ってやり過ごせるけれど、この歳になってゼロから付き合おうと思うと、なかなかにしんどい気がする。
灰羽のこれからについて、少しばかり同情をしないでもないが、彼もまた黒尾とは違った種類の特殊な人間なので、意外とあっさり飛び越えてしまえるのかもしれない。
「もう、答えはわかってるんでしょ」
黒尾が蒔いた種は、芽を出し、蕾を膨らませようとしている。
黒尾は自分が何の種を蒔いたのかも、その蕾がどんな花になろうとしているのかも、本当はわかっているのだ。
雑に靴を脱ぎ捨てた音。廊下を大股で歩く音。台所の母親に帰ったことを告げる声。そして今、階段を昇る足音が、まっすぐに近づいてくる。
足取りは少し重たい。疲れているのだろう。こんな時間まで居残って練習していたのだから、当然といえば当然だ。
(バレーにだけは手を抜けないの、クロの悪いところだよ)
きっと、同じバレー部の仲間でこんなことを思うのは、自分だけなのだろう、ということは自覚している。
だからと言って、否定したいわけでもない。それらも全部ひっくるめて、彼は孤爪にとって、たったひとりの幼なじみだった。
ガチャ、と音を立てて扉が開き、部屋の主が顔を出す。
彼は自分のベッドの上に座る孤爪の姿を見つけて、驚いたように目を丸くした。
「おかえり、クロ」
膝を抱えてゲーム機を持ったまま出迎えると、彼はパチパチと瞬きをする。
「研磨。来てたのか」
「おばさんに言って、上がらせてもらった」
「さっき声かけたのに何も言われなかったんですけど」
階段の下を見やりながら、黒尾は苦笑いを浮かべる。
孤爪とは小学校に上がる前からの付き合いで、当たり前のように互いの家に出入りしてきた。おかげで長じた今になっても、兄弟か親戚の子供のような扱いを受けている。
黒尾は担いでいたバッグをどさりと床に置くと、襟元のネクタイを引き抜きながら、自分の机の椅子に腰を下ろした。
「で、どーしたの。お前から来んの、珍しーじゃん」
「ちょっとクロに訊きたいことがあって」
「何だよ、改まって」
おかしそうに笑った黒尾の表情を注意深く伺いながら、孤爪は用意していた問いを口にした。
「よく眠れるおまじない、って何?」
「おまじない?」
思いがけない単語に、黒尾は一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。
しかし、数秒してから、何かに思い至ったのだろう。ハッとしたように目をみはった。そして、孤爪に向かって何事かを問いただそうと口を開きかけたものの、結局は、喉まで出かかっていたであろう言葉を飲み込み、沈黙してしまった。
(大体、予想通りの反応……)
孤爪の口から出てきたそのフレーズが灰羽から伝わったものであることを、黒尾はすぐに理解したようだ。つまり、それが何を意味するのか知っている者は、黒尾と灰羽しかいない、ということである。
そして、その二人ともが、それは何かというい問いに対して即答できずに沈黙した。沈黙の理由自体は微妙に違うようだが、どちらにせよ、他人に言うのは些かはばかられるものなのだろう。
黒尾は沈黙しながら、今、孤爪の口からそのフレーズが飛び出したことの意味を考えている。
おそらくは、タイミングも重要な意味を持つのだ。後でも、先でもなく、今であった理由。――そんなことを考えながら、孤爪は黒尾の反応をじっと待った。
やがて黒尾は、孤爪の観察するような視線に気づくと、口元を片手で覆いながら、どこか困惑しているような、奇妙な笑みを浮かべた。
「――あ〜……。そうか。……あいつ、何て言ってた?」
あいつ、とは当然ながら灰羽のことだろう。
「何も。……どう言えばいいのかわからなくて、困ってるみたいだった」
「なるほどな」
一人で勝手に納得したような反応に、何がなるほどだよ、と心の中で毒づく。しかも、心なしか機嫌が良くなっているのが見てとれて、余計にうんざりする。
「それで、お前はあいつに何か言ったわけ?」
「……別に」
ぼそりと答えて、孤爪は中断していたゲーム機の電源を入れる。
ディスプレイを覗き込むために俯くと、黒尾は椅子から立ち上がり、孤爪の隣に座り直した。その弾みで、スプリングが、ぎしりと音を立てて揺れる。
「怒ってる?」
へらりと薄く笑って、黒尾がこちらを覗き込む。
何かを誤魔化そうとしている、薄っぺらで胡散臭い笑みだ。孤爪は横目でそれを一瞥し、その向こう側に透けて見えるものに、すっと目を眇めた。
長い付き合いなのも、善し悪しだ。こういうとき、相手が何を考えているのか、大体想像がついてしまう。それが都合の良いこともあるが、鼻につくことも少なくない。
「怒ってほしいの? 何に対して?」
はねつけるように、あえて冷ややかに返す。
黒尾は先ほどの笑みを消し、少し驚いたように目をみはった。それさえもいちいちわざとらしい、と孤爪は苛立ちを募らせる。
(ああ……。けど、これもクロの思惑通りか)
孤爪の感情を波立たせるものは、それほど多くはない。
たった今、自分が抱いた苛立ちの理由について考えながら、孤爪は自分の中で波立っていたものが、次第に凪いでいくのを感じる。結果があれば、そこには必ず理由もある。例えそれが、自分自身の感情であってもだ。
「とにかく、俺を面倒ごとには巻き込まないで。あとはクロの好きなようにしたらいいよ。俺には関係ないし」
すべては黒尾の蒔いた種だ。
黒尾と灰羽の間にある秘密が何であっても、自分の平穏が保たれるのならば、孤爪にとってはどうでもいいことだ。知る必要はないし、殊更知りたいとも思わない。
なまじ親しい者同士のことだからこそ、知らない方がいいこともあるのだ。
だが、孤爪が言いたいことを言ったのでゲームを再開しようとした瞬間、しばらく無言だった傍らの黒尾が、突然がばっと抱きつくようにして圧し掛かってきた。不意を打たれた孤爪は、逃れる隙もなく、そのままベッドの上に押さえ込まれるような格好となった。
「……っ、ちょっと! クロ!」
黒尾の二の腕が、がっちりと孤爪の首回りを固めているせいで、身動きができない。抗議の意味を込めて名前を呼ぶと、彼はベッドに突っ伏していた顔を半分だけ起こし、孤爪の顔のすぐ横で、にやりと笑った。
「いーじゃん。ちょっとくらい、巻き込まれろよ」
どうやら、先ほどの言い方がお気に召さなかったらしい。いじけるにしても、もう少し遣り様があるのではないか、と孤爪はベッドに仰向けに転がされたまま、深々と溜め息を吐く。
「やだよ……。めんどくさい」
「そーゆーこと言うなってば」
「ていうか、自分の体重忘れてない? 本気で重いんだけど」
自由な足で、げしげしと黒尾の足を蹴りつけると、痛いって、と笑いながらも、黒尾は少しも離れる気配がない。
(もう、こういう甘え方するような歳でもないでしょ)
黒尾だって、そんなことはわかっている。わかってはいるが、こうでもしなければ、何かのバランスが取れないのだ。
そして、こんな独り善がりな甘え方を許してくれるのが孤爪しかいないことも、黒尾は全部わかっている。
(……だから質が悪いんだよ、クロは)
自分の場合、物心つく前からの付き合いだから、こういうものだと思ってやり過ごせるけれど、この歳になってゼロから付き合おうと思うと、なかなかにしんどい気がする。
灰羽のこれからについて、少しばかり同情をしないでもないが、彼もまた黒尾とは違った種類の特殊な人間なので、意外とあっさり飛び越えてしまえるのかもしれない。
「もう、答えはわかってるんでしょ」
黒尾が蒔いた種は、芽を出し、蕾を膨らませようとしている。
黒尾は自分が何の種を蒔いたのかも、その蕾がどんな花になろうとしているのかも、本当はわかっているのだ。