鳥籠
序
昔はこうではなかったのだ。
何がいけなかったのだろうか。
いや、何ができたであろうか。
否、いまだに何も変らない。
私は未だここに囚われたままだ。
相変わらずの日差しがじりじりと肌を焼く。
照りつける太陽と、乾いた砂、呼吸する者を戒めるような大気がこの里の特徴だ。
「あぁ、暑い」
うろんな声とは裏腹に、さらりと乾いた顔で少女は呟いた。
いつもはきつく結い上げている髪をそっと掻き揚げる。だが色の薄い金髪は、すぐにもとの位置に戻り、瞳に映る景色を揺らめかせた。
たまの休みに買い物に出れば、こんな日照りだし…。などとぶつぶつ言いながら家までの道を辿る。
「たまには雨も降らなけりゃ困るよ」
そう言いつつも実際雨になればこの日差しが恋しいのだ。
「この間降ったのはいつだったかなぁ?」
記憶にあるのは随分と前のような気がする。元々この地方では、雨はそうそう頻繁に降るものではない。少女の言うように降ってもらわねば困ると、この里の者すべてがそう願っている。
そんなことを呟きながら自分の部屋が見える路地まで来た。
一人で住むにはちょっと勿体無いほどいい物件であった。日当たりも風通しも良く、部屋数もちょうどいい。こんな場所があてがわれたのは、少なくともこの血のおかげでもあるかもしれない。または、父のほんの一欠片の罪滅ぼしか。
まあ、どちらにしても、あまり気分のいいものでもない。
心にいやな影がよぎったとき、視界の端で別の影が揺れた。
視線をあげてその存在を確かめると、まるで痙攣したかのように喉がひくりとなった。
「我愛羅…」
そう呼ばれた少年は、それまで見上げていた部屋から視線を外し、まるで遠くを見るように顔を向けた。
あぁ、まただ。少女が喉の奥で呟く。
また彼は来てしまったのだ。
二人は血のつながった姉弟である。だがそれさえも疑わしくなるほど、日々の二人はあまりにもかけ離れていた。
真っ赤に染めた髪の向こうから、少年の瞳が少女を捉えて離さない。
少女―テマリは抱えた紙袋にほんの少しだけ力を込めると、あきらめたかのように少年に向かった。
遠くの虫の声が耳鳴りに変わる。
扉を開けて足を踏み入れると、外気に反し室内はひやりと心地よい。
「さあどうぞ。突然だから、何もないよ?」
繋いだ手を引いて少年を部屋へと招き入れる。
普段の彼らを知る者なら、この光景の尋常でなさを感じられることだろう。少年が、少女に手を引かれ言われるがままになっているなど、絶対にありえはしないのだ。
ドアを閉めると、二人は外界から隔離された。
靴を脱ぎ、先に行こうとするテマリの腕を引き、我愛羅が背中から抱きとめた。その首筋に顔を埋め、何かに怯えるようにその身を固める。
力強い腕が、体を絡めとり身動きが取れない。
背中が熱かった。
「…我愛羅…」
名前を呼んでも反応はない。けれど、自分からその手を振り払うことはどうしても出来なかった。
きっとこれは憐憫とか同情とか、そういった類のものなのだ。この手を振り払ってしまったら、彼はきっともうこちら側に還って来ることが出来なくなってしまう。そう思えてしかたがない。
それとも、普段はけして人に触れたがりはしない弟の、情緒不安定な行動に母性を感じるのだろうか。
そのどちらでも、なくても、かまわない。ただただ、「かわいそう」なのだ。
少年の中では説明し切れないものが常に渦巻いている。それが彼の精神を蝕んでいるのは明白だった。その渦は月の満ち欠けに酷似していて、時々異常な程好戦的になったり、人ともつかぬほど残酷になったり…。そういったものの反動なのか、普段の冷静沈着な彼に似つかわしくなく、時折発作のように怯えや悲しみを見せる。
それは決まって少女―姉テマリの前だけで。
―これは父が私たちにかけた呪いである―
縋りつく我愛羅の体から、ふと漂う香りにテマリは顔をしかめた。
「我愛羅…あんたまた…」
返事は無く、力強い熱がわだかまるだけ。
その反応はいつもの事なので、テマリは小さく息を吸い込むと、離れない我愛羅の手をとった。
「おいで。約束だからね」
シャワーから立ち上る湯気がガラス戸を曇らせている。
サァサァと規則的な水音を聞きながら、テマリは来訪者から無理やり剥ぎ取った着物一式を洗濯機の中に投げ込んだ。
ぱっと見はそれほど汚れていないのに、テマリは嫌なものでも見たかのように投げ入れた着物を一瞥した。そして息を吐く。
「入るよ」
そう言うが早いか、扉を開け服のまま浴室へと入る。
テマリが身に着けているのは短めの体に沿ったワンピースだ。裾から伸びた素足がタイルを流れる水滴を弾いた。
湯気で煙るなか、湯を半身に浴びながら我愛羅は虚空を見つめていた。
その姿を見るとますます気が重くなる。
「約束…。」つぶやいた声に意識を戻されたのか、我愛羅はテマリへと視線を移した。
まるで人形のような無機質な動作。そこには本当に生きている弟がいるのかさえ怪しくさせる。そんな動きだ。
彼はきっとこの世のものではないのかもしれない。幽鬼や亡霊、幻覚といった類かもしれない。
幻覚であったならば、これほど気が楽なことは無い。もしそうであれば、自分一人が狂っているだけなのだから。
だが、そんな甘い考えもひたすらむなしくさせるだけ。
彼は確実に自分の目の前に存在する。
なぜなら、これは呪いなのだから。
湯気でほんの少し遮られる視界のなかで、視線がかち合った。
「ココに来るときは、血生臭いにおいさせて来ないで。そういう約束だったでしょ?」
「…………すまない……」
やっと発したぶっきらぼうな一言。
それだけ言うとまた視線を戻してしまった。
彼には、この一言が精一杯なのはわかっているので深追いはしない。答えてくれただけましというものだ。
それに、軽く血糊を落とし着替えまでしてきてくれたのは、自分との約束を少しでも気にかけてくれていたのだと知れて嬉しい。
だが、自分の言っている真意が伝わっていないのは変らない。
きっと、この少年には理解することが出来ないのだろう。
―血の臭いをさせてくるな―
それはけして、落としてくれば良いという事ではないのに―。
自分たちの置かれている立場で「殺しがいけない」などと、ぬるま湯につかる人々の観念が通るわけがないことは承知している。
自分も、人を殺しもするし、傷つけることなど当たり前のような立場である。
ただ、彼のようなコトと、自分の犯すこととは、一線を画しているように感じる。
何よりハッキリしている事は、彼は自分のために他人を殺す。そういうことなのだ。
「こっち向きなよ。ちゃんと洗えてないだろう」
シャボンを手に取り我愛羅のそばに寄った。
濡れそぼつ髪を泡立てたシャボンで丁寧に梳いてやる。手で確かめながら洗ってやると、やはり所々に固まった血糊が張り付いていた。
何箇所も落としていくと、白かった泡がかすかに薄紅に染まった。
テマリが今、泣きそうに顔を歪めているのを、背を向けている我愛羅が気づけるはずはない。
一体、今回は何人の血を浴びたのか。
「いつ、なんどきも、身だしなみだけは気をつけなきゃだめだって言ったろう?」