あなただけ今晩は
「兄さん」
雨に濡れる銀髪に腕を伸ばそうとすると、彼は泥水の中を後ずさり、赤みがかったまなざしをこちらにぶつけた。指先は辛うじてフロントドアに添えられているが、もしこれ以上体を乗り出せば、我の強い兄のことだから感情の赴くままに走り去ってしまうかもしれない。注意深く正面から見つめ、この何ともややこしい男に一番ふさわしい説得のタイミングを計る。手のかかる子供のような兄だったが、ここで手を抜けば更に酷いことになるのは分かりきっていた。
「……俺は謝らないからな」
ギルベルトは腰をかがめ、扉に手をかけたまま、雨に濡れたままでこちらを見つめていた。瞳は相変わらず鋭く、決して和らぐことがない。ため息をついて視線をそらせば、浅く上下する喉を水滴がなぞり、青白い胸元にこぼれ落ちてゆくのが見える。まるで最中の汗のようなそれに、不意打ちに鼓動が早まるのが分かった。
ベンチレーターから吹き出す生ぬるい風に息がつまり、ラジオから流れるニュースが頭の中で組み立てたはずの言葉を壊してゆく。はやくすませてしまわねばならないのに、兄は中々歩み寄りを見せない。
「すまなかった。兄さん、早く中に」
「駄目だ、メープルシロップがなきゃホットケーキが……」
説得をあきらめて懇願すれば、ギルベルトは簡単に動揺した。普段は手に負えないくらいの身勝手ぶりを発揮するくせに、こんな時にばかり狼狽するのだから救えない。あぁ、一体どういう理由があって俺たちはこんな馬鹿なことをしているんだろうか? 人より食い意地が張っているとはいえ、いくらなんでもメープルシロップは喧嘩のきっかけでしかないはずだ(そうじゃなきゃ情けなくて頭を抱えてしまう)。兄は強情っぱりで手に負えない男だが、あそこまで病的に一つの事柄にこだわる人間じゃない。
「兄さん、次のスーパーまでどれだけあると思ってるんだ」
透き通ったしずくが瞳を縁取る銀のまつ毛を覆い、頬を流れる雨粒は青白い唇に注がれてゆく。首筋には水分を含んだシャツが張り付き、熱の失われた肌が静かに上下するのが見えた。
「なんだよ、お前に面倒見てもらわなくても一人で――」
まるで埒の明かない展開に苛立ち、扉にかかったままの兄の手を引き、シートが濡れるのもかまわないで無理矢理に座席へ押し戻す。ギルベルトは瞳を丸くするとすぐに抵抗を見せたが、とうの昔に彼の背丈を追い越してしまった弟に今さら敵うわけがなかった。手首を掴み、熱を失った唇に噛み付く。見上げたルームミラーの端には、さっきまでうたた寝を楽しんでいた小鳥がバックシートに避難するのが映っていた。暴れる肩を押さえ、歯列に舌を差し込んで唾液を飲み込ませる。
「兄さん」
口付けを繰り返しながら直接耳たぶに呼びかけ、濡れたジーンズに指をかける。薄く開いた瞳は戸惑いに震えているが、彼はファスナーを下ろし始める俺の指を止めようとはしなかった。唾液で光る唇は小さく開閉し、濡れたシャツが張り付く手首は座席の背に押し付けられている。彼のペニスは軽いキスだけで勃起し始めており、目じりには薄っすらと涙が浮かんでいた。
鼻につく甘い香りは足元にぶちまけられたメープルシロップで、首筋に鼻先を押し付けるたびに舌に乗るのは、熱を失った肌を覆う雨の味なのだろう。彼は充分抵抗しているつもりなのかもしれないが、これじゃあうぶを気取って誘っているようにしか見えない。
「あ、ヴェス、ト……」
甘えた声が耳に届き、先の疑いが確信に変わる。このままなし崩しに始めてしまっても、普段は青筋を立てて嫌がるコンドームなしのセックスを始めてしまっても、今のギルベルトが怒ることはないのだろう(済ませた後には文句の一つでも言うかもしれないけれど、それは大した問題じゃない)。それを分かっているはずなのに、すんでのところで理性が邪魔をするのだから自分の性格が恨めしかった。いや、今の状態で兄の誘いに乗っても、性急なそれじゃあいつものような快感は得られないだろう。カーセックスに惹かれないことはないが、どうせならじっくりと兄を追い詰め、滅茶苦茶になるまで愛してやりたかった。
「……期待したのか?」
かたく瞳を閉じた彼の唇を噛み、大げさに音をたてて扉を閉めてギルベルトの意識を引き戻す。鼓膜を叩く雨音が消えた車内に響くのは、規則正しいエンジン音とラジオから流れる短いニュース、そして彼の浅い呼吸だけだった。兄はここにきてやっと痴態を恥じたのか、赤みがかった瞳を更に真っ赤にしながら細い眉を吊り上げる。
「ちが……」
「何なら続きは家でやってやるが?」
「ヴェスト!」
じゃれつくような軽口を叩き、兄の真っ赤になった頬を笑いながらハンドルに手をかける。足元にぶちまけられたメープルシロップの匂いに辟易でもしたのか、彼はこれ以上スーパーを回ろうとは言い出さなかった。
先にこの日の顛末を話してしまうと、彼がメープルシロップへの執着を断ち切ってしまった後にも、俺たちがすぐに家へと向かうことはなかった。とうのも、「少しいたずらをしすぎたかもしれない」だとかの考えが頭の端に浮かんだ時、切羽詰ったまなざしと共に飛び込んできたのは次のような言葉だったからだ。
「そうじゃない、ここでだ、ヴェスト」