二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

あなただけ今晩は

INDEX|2ページ/3ページ|

次のページ前のページ
 

 事の始まりは今日の午後九時にまでさかのぼる。
 念のため先に言っておくが、今日は夜になるまでは本当にありきたりで代わり映えのしない、何とも退屈な一日だった。兄のギルベルトがトラブルメーカーと見なされる節があるのは充分に理解しているけれども、普段の彼の生活は極めて常識的であり、平凡なルーティンワークを繰り返すだけのそれはある意味俺の人生よりも堅実なのである。
 俺たちの日常を知る人は少ないだろうから、先に午後九時頃までは確かに存在した、ありふれた正常な家庭の風景を説明しておくことにしよう。兄はローデリヒとの口げんかを一通りすませた後に最近恒例となりつつある夜食のホットケーキ作りに熱中し、俺はというとあくびを噛み殺しながら書類の整頓をしていた。ここまではいつも通りのそれだから、何もおかしなところはないはずだ。しかし機嫌のいい鼻歌がキッチンから漏れ出し、それに伴うようにして焼き上がりの甘い匂いが部屋に運ばれてきたあたりで事態は一変する。そう、もしかしたら見当を付けてしまっているかもしれないが、やっとホットケーキが焼きあがったというところで肝心なメープルシロップのストックが切れてしまったのである。
 どうぞ「くだらない」、とだけは言わないでほしい。これが馬鹿馬鹿しいいがみ合いであるのは理解しているし、トラブルとは多くの場合些細な出来事から始まるものなのだ。
 ギルベルトを知る者なら理解してくれるだろうが、彼は親切な友人からメープルシロップを紹介されてからというもの、あの甘ったるく輝く琥珀色の液体に並々ならぬ情熱を捧げており、それは長く世話になったハチミツでの代用を拒否するほどだった。俺だって一応提案はしたのだ。焼きたてのホットケーキの温かさとメープル・シロップを天秤にかけたなら前者が勝つのではないか、久しぶりにハチミツを使うのも新鮮でいいのではないか、と。しかし頑固な彼が弟の説得に応じるわけもなく、かくして俺たちは雨の中を磨き上げたばかりのティグアンで走り回ることになる。
 けれど悪いこととは重なるもので、土砂降りの中たどり着いたスーパーマーケットには彼が好むメープルシロップはなく、結局こんな時間まで走り回る羽目になってしまった。雨の中を駆けずり回った結果、一応は代用品(というよりも、それは成分表示だけを見ればメープルシロップ以外の何物でもなかった。兄が気に入らないのは、愛用するメーカーのものではないという一点だけだ)を手に入れたのだが、彼の機嫌はますます悪くなるばかりで改善されることはなかった。それどころか肩に乗せた小鳥がまぶたを閉じたあたりでもうそろそろあきらめてもいい頃じゃないのかと表情を伺っても、彼はかたくなに家に帰ろうとしなかったのだ。カナダ国旗が描かれた目当てのメープルシロップを買うまでは戻らないつもりなのかもしれないが、どちらにせよホットケーキは冷え切ってしまっているだろうに、一体何を意固地になっているのだろうか。
 そんな一連の考えが顔に出てしまったのか、兄は長く黙りこくった末に怒り出し、乱暴にシートベルトを外すと車のドアを開けてしまった。外は視界を埋め尽くすほどの雨が降っているというのに、彼はちっとも回りを省みようとはせず、怒りに任せて冷房で冷え切った肩をいからせた。肩に乗せていた小鳥は勿論座席に落ち、さっきまで真っ白な指先が添えられていたシロップ瓶は何の因果か蓋が緩んで足元にぶちまけられてしまう。
 開かれたドアからは雨粒が入り込み、甘ったるい匂いが漂うシートに点々と跡をつけてゆく。バイエルン放送の雑音は酷くなるばかりだったが、地面を叩く雨音がかぶさればよっぽどクリアに思えた。言葉のない空間にジングルが響き、カナダ航空のコマーシャルが入る。いきなりの展開に呆けたままでいると、兄は黙ったままの弟に更に気を悪くしたのか、磨きたての革靴が汚れるのも構わずに農道に足を置き、俺をにらみつけた。
 あまりに馬鹿らしくて頭が痛むのだが、これが現在の俺たちを取り囲む状況だった。
作品名:あなただけ今晩は 作家名:時緒