砂上の国
「声がする」
それは何の前触れもなく始まった。薄暗く静まり返った独房の中、彼女がひとり呟いたのだ。古びた椅子の背もたれに力なくもたれかかり、疲れ切った様子の彼女は心身共に衰弱しているようで、目は宙ばかりを追っている。ゆっくりと閉じられた瞼の隙間から、ぼろぼろとそれは溢れ出した。か細い声で、声にならない嗚咽が響く。
独房の作りは非常にシンプルで、必要最低限の物しか置いてなかった。小さな机の上には食べれなかったのであろうほとんど残された状態の食事と、羊皮紙につたない文字で書かれた書きかけの手紙が無造作に置かれていた。出せるはずのない手紙を、彼女はひとりこの独房で書いたのだ。鉄格子の向こうの誰かに宛てて。部屋の中はカビ臭く、空気は籠っている。部屋には小さな窓が一つ、後から取って来つけたよう存在していた。生きる為だけ、それだけの目的に作られた部屋は、唯一の窓から差し込む日の光によるコントラストによって、余計に陰鬱な香りを漂わせていた。ただ、ただ、その酷い現状の部屋を眺めて、何故自分は自らこんなところに来てしまったのだろうと、後悔していた。知らなければ良かった、そうすれば、そう嫌な自分が思っていたのだ。
この部屋には自分と彼女しかいなかった。そう、向こうに自分が手配をさせたのだ。第三者が入ってはなしがややこしくなるのは気分を害することになったであろうし、なるべく、二人で向かい合ってはなすべきだとこころの何処かで使命のように思っていたのだろう。それのは罪悪感以外の何者でもない。勿論その手配のために多くの金がつぎ込まれた。金に力に名誉に地位に目が眩んだ男が唯一の慈悲だと自分に手渡した金だった。それをすべてつぎ込んでこの場を得たのだった。最後に、と。他でもない、自分の意思で、そう望んだはずだった。だというのにこの部屋に入ってから、自分は目の前の少女に何ひとつ言葉をかけることが出来ていないでいた。言葉が見つからないのだ。
自分を慕い、自分を自ら救うと、信じて疑わなかった彼女を図らずも、結果的に裏切った自分が今、彼女に許しを請えばいいのか。はたまたいっそのこと無様だと吐き捨てればいいのか。どちらにしても、それで彼女が救われるようにも思えなかった。結局のところ、恐いのだ。恐ろしいのだ。目の前で宙を眺めるばかりの彼女が。泣きながら彼女の言う<声>に縋る彼女が。ある種の狂気さえ感じているのだ。彼女はひとり踞り何事かを呟いていた。耳を澄ませるとかすかにそれが彼女の言う<声>に返答をしているということが分かった。彼女は丁寧な言葉遣いで、けれど掠れた声で捲し立てるように呟いていた。何故か、自分はどうすればいいのか、そう途切れ途切れになりながら<声>の主に訊ねている内容であることが分かった。彼女は今、彼女自身に話しかけているのに等しいのかもしれない。
<オレルアンの乙女>そう呼ばれていた彼女はもうその<声>と過去に囚われているようにさえ思えた。その<声>の真意は彼女にしか聞こえないのだから、誰も理解することは出来ないのだ。向こう側の彼らが彼女を異端だと唱える理由が分からないわけではなかった。ヒトは見えないものは恐れる、それだけだ。理解できないもの、わからないもの、認めるわけにはいかないもの、受け入れたくないもの、それはすべて異端なのだ。自分にだって、目の前の少女のことをすべて理解しているわけではない。むしろ、分からないことばかりだ。ただ彼女が自分を慕い、救うと言った。それを自分は信じた。それに縋った。それだけだった。それしか自分は知らないのだ。ただ、普通の少女のように笑い、泣き、怯え、怒る、それだけだった。最初から彼女は自分にとってひとりの少女でしかなかったのだ。オレルアンの乙女でも、聖女でも、ましては魔女でも。ただ、ひとりのヒトだったのだ。自分と彼女の間だけでは。
「フランシス、声がするの」
意識が混濁する中、か細い、少女の声で彼女は確かにそう、自分を呼んだのだ。それは自分に対してなのか、それもと彼女の記憶の中の自分に対してなのか定かではなかった。懐かしい名前に思わず目頭が熱くなった。“フランシス”それがヒトとして自分を対等な存在だと自分を認めてくれた彼女がつけてくれた自分の愛称だった。”国”であり”フランス”であるヒトによって作られた<概念>としての存在でしかない自分を、ヒトと接してくれたのだ。彼女は出会った当初から自分を概念の存在として扱うことを嫌っていた。上司や王さえも自分を不気味なよくわからない存在として自分たちに害のないよう、差し障りのないよう遠巻きに扱っていたというのに。彼女は自分を人として自分を受け入れたのだ。それが自分にとってどれほど尊いことであるのか、知っているのだろうか。ヒトではけして成りえない自分を同じように接してくれたとう事実が、どれほど、どれだけの意味を持ったことだということを。
そんな彼女が今、休む暇もなく続く尋問や裁判に彼女はすっかり憔悴しきっていた。何時だか、聖女と崇められ、戦場を誰よりも素早く駆け抜けていたのが遠い昔のことのようだった。聖女から魔女、酷い転落だ。自分を救う為に、そう何の疑いもなしに自分に告げた、あの時の彼女は何処へ行ったのだろうか。ここにいるのは、誰なのだろうか。ただの少女でしかなかった彼女が、聖女と崇められた結果は今なら、彼女の聞いた<声>は何故彼女を救いにはやってこないのだろう。何故独房で彼女は自分の名前を呼び、泣いているのだろう。
「あなたにも聞こえるでしょう」
彼女の語る先には変わらず何も存在はしない。しているとすれば、過去の自分。過去の”フランシス”ヒトの概念による存在である自分が、上司の命令により、彼女を裏切ったことを、きっと覚えてはいないというのだろうか。それとも聖女はその自分が救おうとした国に裏切られたことすら、赦すというのだろうか。
もしも、初めて自分の元に現れた時、そしてそれから自分を救うため、戦場を駆け巡り、聖女と崇められてた少女を「ジャンヌ・ダルク」と呼ぶのならば。自分は今、目の前の少女になんと名前をつけようか。彼女が見せた自分に対する懐疑心こそが、彼女にとって今一番苦しめているものだろう。彼女もわからないのだ、その<声>が何者なのか、だから信じるしかないのだ。それが自分の寄る辺となるべく者である<声>なのだと。そうでなければ、今までのすべてを否定しなければならなくなる。自分の存在そのものを。オレルアンの乙女であり、聖女としてあろうと努めてきた自分を。それをきっと彼女は怯えているのだろう。彼女にだって分からない、信じるしかないものを。弱った状態であるものを周りがつつく、彼女は疑心暗鬼になる。それが奴らの狙いだということも分かっていながら、そうせずにはいられないのだ。