207号室の無人の夜
すぐ近くに百太郎を感じる。焦りでめちゃめちゃになりそうなフォームを制御して、早く、強く、だけど正確に水を捕まえる。誰も見ていない、何にもならない勝負なのに、これまでの大会よりも一番速い泳げている気がした。
隣を行く百太郎も知る限りでは一番速い。最近の不調が嘘のような迷いのなさで進んでいく。元々実力があるのだ。ムラッ気があるけど、去年のリレー以降は心が決まったみたいに集中できていて、近頃調子を崩すまで好調な日が多かった。その中でも今が最高だ。その百太郎と張り合っている。
少しでも気を緩めればすぐに置いて行かれる。体を速く、でも姿勢をキープして腕の角度も乱さない。頭に酸素が足りない。無駄のない動きを求めて考えを張り巡らせる一方で、計算も余力もすべてをまとめて出し切るように体が動く。脳に使う酸素も惜しいほど強く体を動かす。もう星空も、明るい月も滲んでわからない。夢中で泳ぐうちに壁に手がついて、水面に顔を上げ、呆けたように上を向いた百太郎を見た。
ああ、負けたのか。直感で理解したけど、酸欠のせいか悔しさはまだ浮かばず、脳がしびれるのを気持ちよく感じた。ガラス越しの星空を見上げた百太郎は、自分から勝負を申し出たくせに何も言わず、見開いた大きめの目にキラキラ光を反射させていた。いつものうるさい子供の顔じゃなく、どこか別人のような大人びた顔で。その横顔から目が離せなかった。頭がぼんやりして働かないせいだ。
「すげぇ」
ポツリと、やっと百太郎の唇からこぼれ出た。一度発声すると堰を切ったかのように喋り出す。
「スゲー、なにこれ、ヤベー、今、スッゲー!」
「うっせぇぞ。何言ってんのかわかンねえよ」
声をかけられて隣に人がいることを思い出したみたいにハッとして、胸でゴーグルとキャップを握りしめた。叫び出しそうな顔で、言葉を選ぶ間があった。
「俺、あの、今、すっげぇ気持ちよかった。今まで大会で調子いい時とか気持ちよく泳いでたけどそういうんじゃなくて、なんか、今日まで悩んで覚悟決めて楽しく泳ぐつもりなんかじゃなかったのに、センパイがずっと隣にいるのがわかって、負けたくねーって思ってたら、この一本があっという間で、わけわかんねーくらい、気持ちよくって…………たまんねぇ」
震える腕を自ら握って、ギュッとまぶたを閉じた。
ゾクゾクする。見たことのない百太郎がそんな風にまつげを震わせている姿に。絞り出すように漏らす言葉に。
泳ぎ終わった直後の疲労感とは別の何かが体を這い上がって酸素を奪っていく。わけがわからない。どうにかなりそうだ。
そう思った瞬間、思考とは別で体が動いて、自分より小柄な体を抱きしめていた。筋肉をフルで動かした後の体温が密着した胸にしみこんでくる。濡れた肌の感触を味わったら現実と混乱が一度にやってきた。
「わ、わ、悪い、いや、違う、これは……」
反射的に自分に言い訳するような言葉が口から飛び出したが、百太郎は抱擁の意味なんか理解していないんだろう。何のつもりか腕を背中に回して抱き返してきた。魚住の背中にキャップとゴーグルが当たる。
そうか、これは互いの健闘を讃えるスキンシップなのかもしれない。いや、絶対にそれとは別の動機だが、自分でも理解していない魚住はそういうことにした。体を離して顔を上げた百太郎がとても健全ですがすがしい表情をしていたから。
「センパイ、これからも夜練するンすか?!」
「あ、ああ。リレーがなくても個人種目はあるからな」
「じゃあ、俺も一緒に練習していいッスか?!」
「別にいいけどよ……」
「ヨッシャー!」
拳を突き上げた先にある空を再び仰ぐ。そうやっていると瞳に星が写し取れそうだ。
「この間似鳥センパイに誘われて初めて夜のプールで泳いだンすけど、そのときはモヤモヤしてて、こんな広いとこに二人しかいないのが落ち着かなくて全然楽しくなかったけど、今は泳ぎ放題だし星見て泳げてスッゲーラッキー!って気分ッス!」
全力で泳ぎ終えたばかりだというのにすでに次へのエンジンがかかっているらしい。雄たけびをあげてキャップとゴーグルを被りなおした。
「うおおおおおー!調子上がってきたー!」
その勢いのままグリップを握って自分で「ゴーッ!」と叫ぶと同時に後ろへ跳び、向こう岸に向かって泳いでいった。さすがに体は疲労を覚えていて、みるみる沈んでいったけれど。
「…………ホンット、敵わねえなあ」
百太郎がやっていたのを真似して見上げた星空は滲んで見えた。きっと、大会のリレーでは誰よりも速く泳ぐんだろう。それを応援する自分が確かに瞼の裏に浮かぶのだ。
その夏は最高の夏だった。個人レースでは僅差で魚住が一位を勝ち取ったが、リレーは改めて自ら辞退して個人種目に専念した。もう一度勝負して百太郎に勝てるかどうかの自信はない。特にリレーに関しては、個人種目よりモチベーションが高く、テンションに大きく左右される百太郎ならば個人レースよりも速く泳げるだろうという信頼があった。
何度でも味わいたいけど、これっきりでいい。けじめには申し分ない時間を過ごして夏が終わった。
作品名:207号室の無人の夜 作家名:3丁目