【弱ペダ】クライマー、クライマー
ちょっと待て。なんだその展開は。僕は予想外の展開に慌てる。え? 何? どう言うこと?
「下りるには、山登らないとな」
今泉も重々しく頷いた。小野田さんは暫く何のことか判らない顔をしていたが、ぱぁ、と顔を輝かせた。
いや、ちょっと待て。ちょっと待て! 何故そうなる! 大体だな、確かに下るには登らなきゃならない。それは認めよう。だが、登りっぱなしで必ずしも下らないコースだって充分に考えられるだろ! 冗談じゃない。
冗談じゃない……けど、期待にキラキラと目を輝かせている小野田さんの顔を見ると、はっきりイヤだと言えなくなってしまう。お願いですから、そんな眩しい顔で見ないでください!
「いや、あの……」
僕の肩を、鳴子と今泉がばしん、と力強く叩いて万力のような力で掴んだ。痛い、痛い、痛いってば!
「スッゲー長い下り、走ってみたいよな?」
な? と普段からは想像も出来ないようなにこやかな笑顔の今泉が、至近距離から迫る。
「イヤやったら、早う登ったらええねん」
そやろ? と鳴子がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべて自分を見てくる。何だその理屈は! 絶対乗らないからな。絶対にその手には乗らないからな。乗らない……から、そんな期待に満ちた顔で僕を見ないでくださいってのに!
僕の反省が足りなかったんでしょうか。後悔したりなかったんでしょうか。この世に神様ってものが居るなら、僕は今すぐに悔い改めます。
ですから。
その展開だけは、本当にヤメて。お願いだから! いや、お願いします。この通りです!
だが、僕の不信心は許されなかったらしい。
「一緒に頑張ろうね。僕も手伝うから!」
坂道の笑顔が心臓に突き刺さった気がした。
「だから、僕は登り嫌いなんですよ」
それ以来、僕は山について聞かれる度にこう答えるハメになっている。
「またまたぁ。いまや世界で活躍するクライマーの君が?」
スポーツ紙のライターが、マジクールなジョークだぜ、ハッハッハと言わんばかりに媚びた笑いを浮かべる。だが、僕は至って真剣だ。大マジだ。
「本当ですよ。僕は下りが好きなんです。でも、下るには登らなきゃならない。嫌いだから早く登って終わらせようと思ってるんですよ。そうしたら、早く下りが走れるでしょ」
今のチームでも僕はクライマーとして役割を果たすことを求められている。そして、僕もそれを承諾した。なんとなれば、登らねば下れないコースが圧倒的に多いからだ。
さらに、自分は意外とデータ重視の選手だと言うことにも気付いた。もちろん、レースはデータ通りではない。だけれども、とにかく早く嫌なことを終わらせるには、山の情報を知っておく必要がある。どう道が通っていて、舗装の状況や道の周りは樹木があるのかないのか、レース時期の気候や温度はどうなのか。それをどんなルートでどう走れば最短距離になるか、最も早く走ってしまうことが出来るか。そういう少しでも早く下りを走るための戦略に必要な情報は、データから知ることが出来る。そういう行動も、クライマーらしいと逆に評価されてしまうのだが……。
ぽかん、とした顔でライターは言葉を失った。僕は真実を語っているだけだ。だけれど、この感覚は誰にも判ってもらえないらしい。そしてまた雑誌で『傲岸不遜なクライマー』とか煽るような見出しを付けられるのだろう。下りのスピードが速すぎて正気の沙汰ではない、と言う一文が書かれたのは随分昔の事で、今は誰もそっちには見向きもしてくれないのは、なんでだ。
一体どこで間違えてこうなった。
原因は絶対あの高校での一幕だ。なにが凄い長い下り走ってみたいよな、だ。なにがイヤなら早く登ればいい、だ。
お陰で、今日の山岳ステージで僕を蹴落としてやろうと待ち構えるクライマーたちからの視線が痛い。プロデビューして水玉のジャージを何度も獲ったが、その度にどうして下りのジャージがないのかと不満に思ってしまう。こんなことを言ったら、他のクライマーたちにふざけるなと、文字通り半殺しの目に遭いかねないので、黙ってはいるが。
かつ、かつ、と背後から金具の音が近づいてきて、僕の真後ろで止まった。やれやれ、またかと小さく溜め息を吐く。レース前に僕に接触してきて、様子を探ろうとする選手もこの頃は増えた。
「あ、あの。や、やぁ、久しぶり……だね」
聞き間違えようのない声が掛かる。条件反射で体がビクリと震えた。小野田さんだ。このおどおどした喋り方、忘れるはずがない。僕は途端に緊張で体がガチガチになった気がした。酷くぎこちない動きで彼と向かい合う。
「っス」
やっと出てきた言葉はそれだった。
ああ、もうバカバカ! 久しぶりに会えたんじゃないか。それなのに、こんな素っ気ない言葉しか出ないなんて。僕もういい加減いい大人だよ? 挨拶一つも出来ないのかよ! 余りの自分の不甲斐なさに、この場でゴロゴロと地面を転がりたい気持ちを辛うじて抑える。
「あの、僕、今日凄い楽しみにしてたんだ」
最後に会った日から、変わらない姿で変わらない笑顔で笑いかけてくる。
「自分も……ス」
ええ、ええ。僕もですよ! て言うか、小野田さんの情報は全部チェックしてますからね! ヨーロッパチームに入ったのも、小野田さん追いかけてのことだし。やっと同じチームに入れたと思ったのに、小野田さんの方が電撃移籍するとか、超ショックでしたよ! だから、レースで会えるかもってスゲー楽しみにしてたんですよ!
「お互い、頑張ろう!」
小野田さんが拳を突き出してくる。総北時代、レース前に気合を入れる意味で、互いの拳をぶつけ合ったものだ。
「負けません」
こんな所だけ、はっきり言うなよ! それでも、うんと答えた顔は笑顔で、伸ばした僕の拳に、こつん、と彼の拳がぶつかった。
--end
作品名:【弱ペダ】クライマー、クライマー 作家名:せんり