【弱ペダ】クライマー、クライマー
ハイ! と小野田さんが答えて僕をちらりと見る。
「ゴメンね、また後で」
そして、小野田さんはスプリントは得意じゃないはずなのに、あっという間に走り去っていった。あの人は軽いギアで、とんでもなく回転数を上げて走る。良くそれで走れるものだと感心するくらいだ。
小野田さんの背中を見送っていた僕を、古賀が意味あり気な視線で見る。彼の言いたそうな言葉が、いくつも頭の中に浮かぶ。
追いかけなくていいのか?
ここでもリタイアか?
判ってますよ! アタックすればいいんでしょ! 僕がスプリントも山も向いてないドン亀だって知ってるくせに! 未だに走りの方向性が定まってないのは、僕くらいなものだ。判ってますよ。
僕は悔しい思いを飲み込んで、ペダルを踏む足に力を入れた。
「自分、…………山、無理ス」
合宿が終わり夏のインターハイが目前に迫ったある日、僕は部室で小野田さんにそう言った。いや、正確には小野田さんにではない。小野田さんを含めた、部室にいる全員に向けてだ。
スプリンターなのか、オールラウンダーなのか、クライマーなのか。自分が何に向いているのか、どこを目指したら良いか、あるいはどこを目指すべきなのか。僕はまだそれが決まっていない。
部長の手嶋や、同じく三年の古賀に、自分のタイプを見つけろ、と言われていたがいまだにさっぱり判らない。判るのは、山はキツくて嫌いだと言うことだ。
ロッカーを開けてカバンをごそごそやっていた小野田さんが、僕の言葉に振り向いて眉根を悲しそうに寄せた。
あー、僕のバカ。もっと言い方あったろうに。僕はさっきまで三本ローラーで流した汗が止まらぬ内に、また新たな汗が吹き出てくるのを感じた。これは冷や汗だ。怒られるだろうか? それとも嫌われるだろうか?
うわぁ、そこは流石に考えてなかった。というか、その可能性だけは考えたくなかった! 僕は途端に不安に苛まれる。バッドエンドな結末ばかりが脳裏を過ぎった。
ウェルカムレースで僕は、これまで自分自身だと信じて振舞ってきた全てを木っ端微塵に壊された。露わになった自分の矮小さをすぐには認めることが出来なかった。けれど、今は少しだけ自分が認められた気がする。そして、自分はそこまで大きくないぞ、と常に窘めながらいろいろ勉強をしてきたつもりだ。そう言う、多少付け焼刃感は否めないだろうし、小野田さんに対してはまともにきちんと喋ることも出来ないから、イマイチ信用もないかもしれないけれど、怒られたり、ましてや嫌われたりするのはイヤだと思った。
「あー、ま、お前山はムリだろ」
ローラーのノルマが終わって休憩していた同級生の鏑木が、オレンジビーナを飲みながら偉そうに言う。お前には話していない。黙っていてもらいたい。無言で睨みつけたが、僕の視線の意味などさっぱり気付いていないらしい。
「どーみてもクライマーじゃねぇよ。ま。俺は天才だからな。俺だけじゃねぇ、ヒトの向き不向きも判るぜ」
はぁァ!? て言うか、お前に言われたくねーよ! 僕は腹の中で悪態を吐いた。お前こそドがつくスプリンター向きのくせに、自分の実力をオールラウンダーだと勘違いしきっているではないか。むしろ、僕の方が素人目ながら、鏑木の脚質を良く判っていると思う。
「黙れ、イキリ」
「黙っとけ、イキリ」
同じく休憩していた今泉と鳴子が鏑木の頭をごす、と叩いて黙らせた。鏑木が、なんスか! なんなんスか! とジタバタしながら二人の腕から逃れようとする。
「そ……、そう……。そっか……」
慌てて手を離したガシャポンのプラスチックケースがころりとカバンから転がり出る。僕全然興味ないですけど、それこの前激レアゲットしたって、凄い喜んでたやつですよね? 落ちちゃう、そのままだとロッカーから落ちちゃうから!
「や……、つか、その……」
上手く言葉が出てこない内に、案の定プラスチックが床に転げ落ちた。かっしゃん! と言う軽いながらも大きな音に、部室にいた全員がビクリとする。
「あっ! マニュマニュの限定彩色が……、じゃない! ごっ! ごめん! 大丈夫だから! すぐ拾うね。ごめん!」
小野田さんが酷く慌てて、ガシャポンを拾う。本当だったら、今すぐ状態を確認したいだろうに、敢えてそこを堪えてカバンにしまった。
ああ、小野田さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。今すぐ三歩下がって額を床に打ちつけながら土下座したい! いや、もう五体倒置で土下座したっていい! 小野田さんが酷く寂しそうな顔を見て、自分を酷く情けなく思った。尊敬する先輩に、山が嫌いなんて言うのはツライ。山が好きと言えないのが悔しい。
「……サーセン」
緊張と申し訳ないのに、予想外にぶすっくれた口調になってしまった。
「あっ、あー! あのね、全然謝ることじゃないよ! 向き不向きは当然あることだし。ただちょっと寂しいなって……。あっ、じゃなくって! えと、その! 僕だって平地は苦手だし……」
小野田さんがね? と周りに助けを求めるように見た。
「その……、自転車、嫌い?」
小野田さんが言葉少なに尋ねる。その言葉に僕は即座に首を振った。もともと自転車は好きだった。自転車競技部に入ってもそれは変わらない。
「あっ、あのさ。どこか走ってて好きとか、面白いって所はある?」
平坦な道も好きだ。漕げばどんどん進んでいく。最近は多少速度を上げるコツを掴んで、もっと楽しくなった。でも、実はもっと面白いと思っているところがある。
「まぁ……下り……とか」
小野田さんになんて口きいてんだ、僕。山が好きだといえない罪悪感と、尊敬しすぎの緊張感で、口が思ったように動かない。その中でやっと出た言葉が、山とは正反対だとは。
「下りって、オマエ! 楽してーだけだろ、それ!」
鏑木がゲラゲラと笑い出す。
違う! 断じて違う。
そう、僕はどうやらスピード狂であるらしい、とここ最近判ってきた。ならスプリンターでも良さそうだが、がむしゃらに漕いで速いのが好きと言うわけでもないらしい。
自転車競技では下りでもペダルを漕ぐ。重力に引かれて、車輪が勝手に回る。それがどんどん速くなっていく。自分がペダルを回していなくてもだ。一度ついた速度は自分を縛り、少しでも無理な動きをすれば自分を軽々と吹き飛ばす。そこをさらにペダルを回して速度を上げるのだ。自分でもっと不自由なほどの速度にして自らをがんじがらめに縛る。その状態で一番速く坂を降りられるルートをギリギリで踏ん張りながら下っていく。
その速さと不自由さと危うさに血が踊り、腹の中から沸きあがってくる恐怖と興奮がたまらなく好きなのだと、気がついた。
なんか変態みたいだ。そう思って悩んでもいた。だけれど、走りながら思わず笑ってしまう、そんな小野田さんの気持ちが判ったのは、下りを走っている時だったのだ。ああ、そうか、これなのか。理解した時は大げさでなく雷に打たれたような衝撃があった。
「下りか……」
今泉が思案するように言葉を繰り返す。
「下るには登る……」
ふむ、と今まで一言も発しなかった段竹がいきなり喋った。てか、オマエ居たの?
「せやな。段竹の言う通りや」
鳴子がにやりと笑った。
作品名:【弱ペダ】クライマー、クライマー 作家名:せんり