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 開きかけの桜花の蕾と、延々と車道が沿う大海から潮の香が混じり合い、風に乗りふわりと届きやって来る。
 海とは真逆側の体育館入口の扉を一箇所しか開けていないので、流石に波の音は聞こえない。その代わりに今丁度やって来た……まるで男児の玩具のような僅かな編成の鉄道が、潮風で錆びつき、少しくすんだ鈍い草色をした車体をカタンコトンと揺らし、面倒臭そうに……陵南高校前と書かれた無人の駅へゆっくりと停車する。
 ―…陵南高校。
 県内有数の進学校であり、研鑽を重ねより一層の高みを目指さんとする県下の児童達全てにとって垂涎の的である学び舎である。ただ学に秀でるのみではなく、各運動部の部活動も……例えば、優れた人材であれば他地区、他県……都内からでも広く人材を集める程盛んで、それに相応しく広い練習場等の諸施設も充実し、正に文武両道の名門であった。

 若い学徒達の健脚であれば物の数にも入らぬであろう非常に緩やかな坂。
 そこを見上げれば……帰宅するのであろう。汗の匂いの付いた身体に大なり小なりのバッグを抱えた運動部員達が引き摺るような重い足取りを、それでも下り坂の勢いに任せ、深草色の鉄道の停車駅へと歩んで行く。
 他にも多くの同様の生徒達を見掛ける中、陵南高校の体育館……校内で最も海に近い建物であるそこは、未だ電気が付いていた。
 ふとその扉から何者かが出て来る。
 粗末な懐中電灯を持った中年の男……当番の用務員は、中に居る人物が日が暮れても変える気配のない事に感心し、また半分は呆れるような表情を浮かべ、やれやれと小さく呟き、その場を後にした。
 僅かの間を置き、ボールが床に当たる音が聞こえ始める。
 日が沈み蛍光灯の付いた体育館内には、学生が居た。
 手を添え、彼が両腕で支えるバスケットボール。そのスポーツを行うには足りているとは言い難い背丈。高等学校の施設内ではあるが、少年はともすれば中学生にも見えてしまう程……少年と子供の瞬間の狭間を切り取り、まるでそのままを彼に張り付けたような……どこか不安定さを感じさせるものを持っていた。
 子供にも見える少年は、バックボードに向かい緩やかな曲線を描くスリーポイントラインから約半歩程の場に足を置き、離れている。
 リングと少年とのその間は約6.25m。遠い。
 しかし少年は向かう。
 利き手に馴染ませたボールを上腕で支え、彼の小柄さが一層のハンデとなっているリングまでの距離の遠さを懸命に補うように膝を曲げ、半身に力を込める。
 瞬時、痩せ気味の体を伸ばし、茶のボールを放り、指を離す。
 空中で静止した少年の重たげな、しかし艶のある黒の前髪がふわりと舞い、揺れた。
 緩い……緩すぎる放物線を描き、ボールは浅い角度でリングへ吸われる。
 入った、と言う気持ちとそれ以上に納得の行かない、不満気なものが残り少年はその場に着地する。
 上手く行かねえと、汗で張り付いた前髪を軽く振り払いながら、幼い外見通りの少年の言葉遣いでそう思う。
 (……これで40本)
 急ぎ足で館内の隅に向かう。角に近いそこには大き目のバッグとノート、少年の筆記道具が投げ出されている。
 急いたまま中腰となりノートを拾い、さらさらと何かを書いて行った。
 開かれたノートには手書きで表が書かれ、その中に記号……○と×が一面に、びっしりと記されている。
 彼は文武両道である陵南高校の他の部員達が見聞きしても顔を歪める程の凄まじい練習量の部活を終え、こうしてスリーポイントラインからのシュートを行い、つい先刻打ち続けていた10本については、7回成功し、3回外した。
 一面が○と×の羅列であるノートの横一列を指でなぞり、彼は結果を確認する。
丁度、さっきのシュートで今日は40本目、そして今まで40本打った内の31本が入っている。
 恐らく“二人”の先輩方も、同輩達も全員帰ったのだろう。
 正気を疑う程の練習量の後に共に練習を行う者、ましてや自分の打ったシュートの回数とその結果を教え、数えてくれる者などはいないので、彼はスリーポイントラインより半歩から一歩離れた場所からの自分のシュート記録を、10回打つ毎にノートに付け続けている。
 ―…やはり今打った10本と同様に、7~8割のシュートが入る計算となる。
 こうして記録上の数値として見れば、そこそこの率と言うのかもしれない。
 しかし……
 (……)
 幼げな少年―…越野は小さく溜息を吐く。

 この名門にして強豪の陵南高校の中で。
 最低限、今の現状……ユニフォームを貰いスターティングメンバ―の一角を死守し維持する。その為に。
 (欲しい。)
 そう望み、求めるものが越野には二つあった。
 一つは……身長。
 先刻最後に打った、緩やかな緩過ぎる放物線を描き、リングに半ばねじ込むように入れたシュート。
 理想としては彼が打つ……打てるスリーポイントラインから僅かに引いた「不本意」な定位置から打ち放ち……リングに対し高い角度でシュートを入れたいと常々そう思い描いている。
 角度の高いシュートであれば、実戦での……厳しいDFを掻い潜り、完全とは言い切れぬシュートフォームからの打ちであっても、リングに対しての上からの有効範囲が広がるのだから、少なくともリングの手前側のアーチにぶつかり、ボールが跳ね返りシュートが入らなくなる可能性は減る。
 リリース後のボールの軌道とリングに入る角度を高くし、広げる手段としてはジャンプ力……凡百の力と言って仕方ないだろう自分のその限界と腕のリーチ、つまり身長があれば実戦でより3Pが打ちやすくなるだろうと、そう願い思う。
 (……)
 越野は溜め息を吐く。子供と少年の境のような幼い面立ちにふと陰が差す。
 その脳裏に……神奈川一の長身である尊敬する巨体のCの先輩、多少腹立たしくはあるが恵まれた体格の同輩、そして……手の届かない“天才”が過ぎる。
 (……今日の部活もそうだった。)
 練習試合―…菅平、明治、上田、桐生、服部他、上級生を含め全ての部員が固唾を呑んで見学するスタメン及びシックスマン、スタメン候補達による模擬戦。
 その中で……「彼」除く他のメンバーがオフェンスの手段として苦手とするスリーポイントや、巨体のセンターが不得手とするミドルシュートを狙い、構え、放ち。
 あの三人に幾度ブロックされた事か。
 特にあいつ……プレイに対し限りなく細やかな観察眼を持つ同輩の“天才”は越野が3Pを打ち始めた事にいち早く……気付いているのだろう。
 先刻のような緩慢な動作で、そして安易な3Pを打とうとすると特に執拗にシュートブロックを行い、厳しいディフェンスを仕掛けてきた。
 もう一つ。
 越野は汗ばんだ己の手足を見詰める。
 常識を超えた練習量で名高いバスケ部に入り、経過した。
 鍛えられてはいるが一般の男子学生と何ら変わらない、彼等よりも細く、痩せ型の自らの身の丈。
 再度息を吐き、他二人のスタメン達を思う。
 ……自分より唯一小柄なスタメンではあるが、まるで無尽蔵のような正しく陵南一のスタミナの持ち主であろう同輩のPG、同じく頑強な、やはり尊敬する先輩から今以上にマークされたら。
作品名: 作家名:シノ