ワルツ
事務所は留守だった。先に着いてしまったらしい。
目的の人がいないのでテーブルセットの椅子に腰かけてバッグの中から出した手紙を広げた。妹宛の、ポストに入れる予定のない手紙。
少し書いては止めて、また頭がいっぱいになったら続きを書く。
便箋代わりのレポート用紙は二枚目に突入していた。
手紙というより日記みたいなものだ。最初の方は緩やかにエスカレートしたセクハラに困っていて、行動の裏を疑ったり、まんざらでもなくなって、後の方は夫の浮気を愚痴る妻みたいな、随分調子に乗った内容だった。でも、最後の一行にはこう書かれている。
『でも、僕は彼の恋人ではなかったのです。』
恋人がどうやってなるものかは知らないけど、多分約束があるんだと思う。自分だけのものになって、他の誰かに靡かないで。僕たちの間にはそういうものはなかった。あの人は平気で他の人の匂いを纏って帰るし、僕が他の誰かと生きていくのを後押しするようでもあった。
もしかすると、最初から将来の計算に入っていなかったのかもしれない。そう思うと理解できなかった言葉の数々が急に納得いくようになる。どうせ目的が果たされたら離れていく人間だと思って、線を引いていたんだ。そうやって割り切れる人。
ペンを取り出して手紙の続きを書いた。この手紙に切手を貼ることはないけれど、とてもミシェーラに聞いてほしい。
レポート用紙を埋め尽くしてペンを置いたときにドアが開いた。
「スティーブンさん」
ちょっと驚いた様子で、そのまま自分の執務机に向かう。
「てっきりザップと一緒に食べに行ったと思ってたよ」
「断っちゃいました。ツェッドさんは?」
「ザップから呼び出されて一緒に飯だそうだ。だから君も一緒だと思ったのに、珍しいこともあるもんだな」
「そっすね」
ほらね。やっぱり何だかんだ言っていい先輩だ。感謝の気持ちを目減りさせられないために絶対言わないけど。
机を回り込んで椅子のすぐ横に立つと当然のように腕が腰に回る。それを受け入れながら、キスの代わりに髪を撫でた。されることはあったけど、年下の僕がそうしたことはなかった。
彼は驚いたようだったけれど止めなかった。面倒な人。
無表情で誰にも知られず傷ついて、非力でお節介なガキを懐に入れてみたりして。どうせ手放すつもりなら最初からしなければよかったのに。
ものわかりのいい大人の顔でいても本当は割り切れていないんじゃないか。だから半端に触れてきたんじゃないのか。
しばらく撫で続けていたら柔らかく手を握って頬へ引き寄せられた。傷跡の上を滑らせて唇が触れる。
「スティーブンさん、お願いがあるんです」
「改まって何だい」
「レンタルした映画を一緒に観てほしくて」
「いいよ。でもしばらく忙しくてゆっくり帰る暇がなさそうだから、レンタル期間が過ぎてしまうな」
「大丈夫です。また借りるし、自前で買ってもいいし」
「タイトルは?」
「ワルツ」
余裕のある大人の顔が少しだけ揺れた。
「いつでもいいですよ。来週でも、来月でも、来年でも」
「気が長い話だな。さすがにそこまで徹夜続きにはしたくないものだね」
「三年後でも、十年後でも、五十年後でも」
「……君は僕がいくつだと思っているんだ」
こんな生活では寿命も早いだろうと自嘲して目元に疲れを滲ませる。
「ずっと一緒にいるっつってんですよ」
強く言ったら背中に氷を投げ込まれたみたいに目を丸くした。気分がいい。
弄ばれていた手を精悍な輪郭に添えて唇を寄せた。