ワルツ
一瞬の隙をついて掠めるだけのキスをされた。これから歳近い二人の同僚とランチに出かけるってところで、二人が先に歩いて行くのを追おうとしたらこれだ。
上司のデスク脇を横切ろうとしたら腕を引かれて、振り向いたところをやられた。触れたら即通常営業に戻る。腕を引いたこと自体なかったみたいにパソコンのキーを叩いてこちらも見ない。
「おーい、ボサッとしてると置いてくぞー」
戸口で呼ばれて走った。
「何してんだよ」
「いやぁ、お金持ってたかな~と思って」
「ハァ?俺は貸さねえからな」
「万が一、億が一にも貴方がレオくんに奢ったとして、それは貸しじゃなく返済でしかありませんよ。レオくん、手持ちがなかったら今日は僕が出しますよ」
「アーアー、魚類のちっさい脳みそじゃ算数もわっかんねーよなー」
「経済観念のない人に何と言われたってダメージありませんから」
「じゃー今日は金持ち魚類先生の奢りってことで」
「レオくんに奢るとは言いましたがあなたの分までは言ってません」
「ありますから、ありました、お金!ね!腹ペコなんで早く行きましょう!」
二人の背中を押してこっそり振り返る。大胆なことをしてくれた上司は完全に仕事モードでどこかへ電話をかけているところだった。
まるで僕だけが時々夢の世界に迷い込むみたいだ。一瞬で眠って一瞬で目が覚める。夢の中のありえない出来事を周りの誰も知らない。ただ一人、ポーカーフェイスの上司を除いては。
「ああいうのホント勘弁してくださいよ。他の人に見られて困るのはお互い様でしょ!」
「別にあれぐらい何とでも言い訳は利くさ。そんなことより仕事だ、仕事。ほら、出てきたぞ」
愛用のゴーグルで目元を隠して車のフロントガラス越しに眼を凝らす。地下遊技場から地上に出てきた人物は一見するとどこにでもいそうな顔の人類だったが、僕の眼は誤魔化せない。
「黒です。人類じゃないっす。つか、ちょっと人相変わってるけど写真の人物でビンゴっぽいです」
「オーケイ。あとはチェインに追わせよう」
電話一本で諜報担当不可視の人狼少女に指令を出し、緩やかに車を発進させた。事件の重要参考人の素性を洗い出す過程で外見偽装の疑いがあり、今日最後の仕事として張り込みをしていた。
走り出した車は事務所には向かわず、僕の安アパートにも向かわず、夕暮れのドライブインシアターに滑り込んだ。
アフターファイブに二人で映画。まるっきりデートコースだ。しかも上映しているのはラブストーリー。
くる、と思ったときには肩を抱かれて引き寄せられている。スクリーンの俳優みたいにスマートなやり方で唇を重ねて。僕が息継ぎを忘れていると膝を指で軽く叩いて呼吸を思い出させる。こんな恋人同士みたいなキスはこの人が初めてで上手くやれなくて、舌での応え方も息継ぎのやり方も全て教わった。
もしかして、いずれ組織の中で女性相手の諜報活動を担うことを期待して育てられているのでは。そんな妄想もしたけれど、僕はどちらかと言えば兄妹共々母親似の男前とは程遠い容姿だ。おまけに身長は女の子たちとそう変わらない。スタイルのいい子にハイヒールなんか履かれたらカレシじゃなくて肘置きだ。虚しい想像と共にその案は確かめるまでもなく却下した。
「……ずいぶん馴れてきたな、少年」
「お陰様で」
「涎垂れてるぞ」
「うおっ」
袖で拭こうとすると、肘を押さえてストップをかけ、スーツのポケットからきれいなハンカチを出してくれた。その拍子に小さな指輪が転げ落ちる。それはすぐにさり気なく拾われポケットに戻された。
まさか、婚約者はいないだろう。そんなものがいるなら誰かが教えてくれそうなものだ。恋人かな。
普段仲間の前で匂わせなくても女性関係が皆無なわけがない色男だ。ザップさんほどあからさまに爛れ切ってなくても特定の相手の一人や二人いておかしくはない。
そういうこともあるだろうことを最初から分かっていたくせに、指輪の相手の存在を想像したら急に及び腰になった。完全に受け身とはいえ恋人さんに悪いことに変わりはない。
続きをしようと迫ってくる顔を映画を見るふりで避けてしまった。
「……あ、これ見たことある。知らないタイトルかと思ったけど」
わざとらしくはしゃいでも運転席の上司は気を悪くしなかった。セクハラは諦めたようで、背もたれに体重を預けて同じようにスクリーンを向いた。指輪の入ったポケットに手を突っ込みながら。
「古い映画だから少年ぐらいの歳じゃ知らなくても無理はないが、結構有名なんだぞ、コレ」
「すいません」
「やめてくれ。謝られると余計に俺が歳みたいじゃないか」
実際歳はかなり離れてるんでリアクションに困る。映画の中の登場人物もスマートフォンどころか携帯電話自体も使っていなくて、ダンスのシーンなんかレトロなドレスでくるくる回っていた。カーステレオから流れるノイズ交じりの音楽が物悲しく響く。
ダンスの終了と共に一夜の夢みたいなパーティーが終わって、画面が殺風景な部屋の景色に切り替わる。そこに彼女はいない。
断片的にしか見ていないのに感情移入して悲しくなった。手に入らないとわかっていて最後に二人は踊ったのだ。
黙ってスクリーンを見つめていると、投げ出していた片手に大きな手が重なる。そうしたら余計に切ない気持ちが盛り上がってしまって、自分から指を絡めた。
よく知らない映画を、元々好意があったわけでもない上司と見ている。そんなわけのわからない状況だというのに。