ワルツ
上司の自宅にまで上がり込むようになったら関係がエスカレートした。
といってもベッドで少し、思春期の子供の戯れ程度に体を触られるだけ。やり返そうとしてもかわされてしまうので、いつも昂るのは僕だけだった。
『やあ、まだ事務所だな。今日はバイトは?』
電話の調子でプライベートの用事とわかって気を抜く。同じ着信でも声音で仕事モードか否かがわかる。
「休みなんでクラウスさんにチェスを教わってたとこです」
『まだ帰らない?』
「飯っすか?」
『うちに来ないかと思って』
「いいですけど……」
クラウスさんに適当な理由をつけて帰り支度をして通りに出た。図ったかのようなタイミングで車が横付けされる。彼は運転席から身を乗り出して助手席側のドアを開けると、シートの上に脱いであった背広とネクタイを後部シートに放り投げた。シャツの襟元が少し開いていて、動いた拍子に女物の香水がふわりと漂ってきた。
ああ、そういうことなんだ。何でそんな日にわざわざ誘ってくるんだろう。わけがわからなくてほんの数秒呆然とする。
職場の部下の、しかも男を部屋に連れ込んで恋人の真似事をして、相手の人に悪いとは思わないんだろうか。思わないんだろうな。
上司の家に帰ると、家政婦さんが作り置きしてくれている料理で腹ごしらえして、ソファで上司のしたいようにくっついて座る。それから当たり前のようにキスを求められる。細かく段階を踏んで慣らされたので、これぐらいのことはもう何ともなかったけど。
外から帰ってそのままの服からまた女の匂いがして、咄嗟に手のひらで顔面を押し返してしまった。これにはさすがの上司も驚いたようだった。
「ああ、すいませんっ!いや、あの、今日はちょっと……」
口をふさぐ手のひらを引こうとしたら手首を掴まれて引くに引けなくなり、手のひらを舐められてゾクリとした。行動の理由なんかお見通しみたいな余裕が見える。
「嫉妬?」
「違います」
自分でもびっくりするほど厳しい声が出た。上司の恋人に嫉妬する部下ってどんな昼ドラだよ。愛憎劇どころか、即物的なスキンシップしか存在しないのに。
「そうじゃなくて、前々からキチンと聞きたかったんすけど、なんでこんなことするんすか。……すっげー今更ですけど。この間の指輪も、どうせペアなんでしょ?そんな相手がいるのに何で俺なんか相手にするんすか。目的があるならそろそろ教えてくださいよ!」
「目的?目的ねえ……」
捕まえた手に鼻先をこすりつけながらうっとりと目を細める。
「まず、指輪がペアなのは正解だけど君の思ってる関係じゃないし、その女とはもう切れてる」
「指輪持ってたくせに」
「会う時はつけてないとうるさかったからね」
それって婚約者じゃないのかよ。悪い大人の感覚は理解できない。
「捨ててほしい?」
「別に……」
「捨てないけどね」
やっぱり未練があるんじゃないか。
「気になるなら君に預けるよ」
「え、いいですって、もう気にしませんから!」
断ったのにポケットにねじ込まれた。それで空になった両手を見せられ、これでいいだろうとばかりにのしかかってキスされた。
「たんま、たんま!はぐらかそうとしてるでしょ!」
ソファに組み敷かれて見上げた姿勢では格好がつかないが、このチャンスを逃したらまた訊けなくなる。
「何でこういうことすんのか聞けてません」
「うーん、目的っていうのも君の勘違いだ。前にも言った通り、君自身が目的だ」
行動で示してくれる。脇腹を直に撫でまわされるくすぐったさに身を捩って、悪戯な手を捕まえると、そのまま指を絡めてソファに縫い留められた。
「あー、例えば……俺にハニートラップのやり方を仕込んでるとかそういうんでもなく?」
「なんだそれは。なかなか思い上がったもんだな。君にそういうのは無理だよ」
「デスヨネ」
「何かまた勘違いしてるな。魅力の話じゃなく性格の話だ。君はイイヤツすぎる。本気で自分に好意を持ってる対象に“愛してる”と100%の嘘をついて抱き合うなんて出来ないだろう」
確かにそうかもしれないが、出来ないと決めつけられるとちょっとした対抗心が首をもたげてくる。
「不満かい?じゃあ試しに言ってみるといい」
「試しにって……」
「今ここで、君に本気で好意を持ってる僕に」
あれ?誘導された?
行き過ぎたスキンシップは数をこなしているのに、言葉のやりとりはさっぱりなかったので油断していた。
「どうした。やっぱり無理だったろ?」
見え見えの挑発だ。ツェッドさんなら受け流せるけどザップさんなら一発で引っかかるヤツ。
「君は馬鹿正直だからな。詐欺師の才能はないが正直なのは一般的には美徳だからそう凹むことはないよ」
ここは乗るところじゃない。大体にして詐欺師になりたいわけじゃないんだし、正直なのはいいことだろう。クラウスさんだって誰より正直な人でライブラのリーダーを務めている。だからこんなのは挑発にもなってないんですよ。生憎ですが。そう告げようと息を吸った。
「あ、……あいしてます」
ダメだった。我慢ならなかった。
「ほう。でもぎこちないな。いかにも言わされてるじゃないか」
「え。えーと…………愛してます……す、好きです」
「それで?」
「え」
「そこで終わりじゃあ君の欲しい情報は引き出せないよ。自分の言いなりにしなきゃ」
「ええー」
「僕を手玉に取るんだ」
無理難題を言いながら手を首に導かれる。手玉に取れなんて言いながら、あとはもう首を抱いた腕にそっと力を込めるだけ。それから、羞恥に負けて蹴り飛ばさない努力をするだけだ。
結局その晩も向こうの思う壺で、一方的な愛撫に終わった。手玉に取られたのは結局こっちだった。