ぜつぼうのよあけ
その熱が冷めるのを、今か今かと待っている。
ぜつぼうのよあけ
もしこの世に神様なんて得体のしれないモンが存在するとしたら、間違いなくそいつは俺のことが嫌いなんだろう。
ふと、そんなことを考えた。被害妄想だとは思わないし、卑屈になっているのとも違う。客観的に、現実を見たままの感想だ。
人間離れした怪力や身体能力は余計な敵を作り、そいつらの相手をしているうちに今度は喧嘩が強くなった。喧嘩に強くなると絡んでくる奴らの人種も変わってくる。学校でも同じ。面倒事に巻き込まれたくない一般生徒や教師たちは俺と距離を取ってなるべく関わらないようになり、俺の周りには、小さい頃から変わらず俺に接してくる弟と、怖いもの知らずの同級生と、天敵だけが残った。
もともと器用な方ではないし、社交性なんて欠片もない。絡まれるのは面倒くさいけど、だんだんとこの無用の長物である力の使い方も覚えてきた俺は、ほんの一握りの人たちとこの自分の周りの小さな世界で、当たり障りの無い普通の生活が送れればいいと、そう思ってた。
目新しいものにも、慣れればすぐ興味をなくす。人間ってのはそういう生き物だ。だから、ノミ蟲の野郎に半ば強引にその人を紹介された時も、俺はどこかにそんな諦めみたいなものを抱えたまま対面した。
「初めまして、折原帝人です」
深々と丁寧に下げられた頭と、邪気のないきれいな笑顔。物腰は穏やかで、臨也とは似ても似つかないが、ヤツの姉なのだという。ということは上級生か。自分の周囲の人間以外は俺には近寄らないから俺も知ろうともしなかった。まあ、ノミ蟲の親族って時点で、俺が自分から興味を持つ可能性はゼロに近いが。要するに、綺麗な人ではあったが奴の姉だという情報のみでは、第一印象はあまり良くはない。
「あ…、平和島静雄、です」
礼には礼を返すべきだとこちらからも名乗ると、意外にも柔らかな笑顔を返されてどきりとした。つくづく臨也の親族だとは信じがたい。けれどその直後の臨也のあしらい方なんかを見て妙に納得した。人は見かけによらないという言葉を体現したような人だ。
臨也とは、まるで違う。なのにこの存在感は何だ。何もしていなくても人を惹きつけるような雰囲気と、迂闊に手を伸ばせばこちらが怪我をしてしまいそうな危うさを、併せ持っているような。きっと、この笑顔に裏はない。それでも一筋縄ではいかない、そんな厄介さを瞬時に感じ取った。一言で表すなら、空気が同じ。折原の血とはそういうものなのか。
「あ、勘違いしないでよね。シズちゃんに会いたがったのはたしかに姉さんだけど、それは化物じみた怪力に興味があるだけで、まちがってもシズちゃんなんか好きにならないからね」
今までのやりとりを見ていて、臨也がこの姉に執着しているのは明白だった。臨也なりに釘を刺したつもりだったんだろうが、その言葉は一瞬の後に俺の耳を素通りしていく。臨也の姉という認識、実物とのズレ、目の前にいるのはどう見てもただのか細い女で、なぜかそれが無性に俺を苛立たせた。俺を牽制しようとする臨也の耳障りな言葉の所為なのか、彼女自身の所為なのかはわからなかった。この苛立ちが何なのかさえも。
「非日常が好き、か。随分とイイ趣味してんだな。俺は動物園のパンダじゃない。見世物になる気はねぇぜ」
「ええ。動物園のパンダはもっと可愛げがありますよ」
威圧するように見下ろして、わざとぶっきらぼうに言い捨てた。彼女は微動だにせず、臆すことなく俺をまっすぐに見上げて、また悠然と笑った。けれどその言葉には随分と強い芯が垣間見える。言葉の選び方と切り返しの速さはさすが。
臨也のことは相変わらず大嫌いだ。同じ名を持つこの人のこともすぐに信じることはできない。それでも
この人は他の人間とは違う。臨也とも、誰とも。多分そう、心のどこかで直感的に感じてた。
「もう、見世物と客じゃありませんよね。これから宜しくお願いします、静雄さん」
昔から色んな視線を浴びてきた俺だからわかる。ふわりと微笑むその表情は、紛れもなく知り合いに向けられるそれだった。
俺の周りの小さな世界に加わった、一輪の花。
俺と帝人さんの、これが出会いだった。
***
「静雄さん、またこんな所にいたんですか」
「…帝人さん?」
昼休みの屋上は陽射しがあっても風が冷たい。それでなくとも俺が階段を上がるのを見た生徒は寄ってこないし、いつものように貸切状態になっていた。柵に寄りかかって紙パックの牛乳を飲み干すと、壊れかけたドアをゆっくり押し開けて帝人さんが上がってくる。長い黒髪が強く吹いた風に煽られて舞った。
「帝人さんこそ、良く飽きずに来るんスね、こんなとこまで」
「…実はこっそり教室を抜けだしてきたんです。臨也さんに見つかると面倒だから」
「あー…、俺と会ってるなんて言ったら、あいつ怒り狂って、多分暫くひとりで行動させてもらえないっすよ」
「ふふ、そうでしょうね。でも、なんだか新鮮です。臨也さんに秘密をつくる、なんて」
まるでいけないことでもしてるみたい、といたずら好きの子どものように、口許に手を当てて楽しそうに笑う帝人さんを、俺は眩しいものでも眺めるように見下ろした。これだけ聞くと彼女が臨也の目をすり抜けて来た先が俺のところだっていうのは、単純に喜ばしいことのように思う。でもずっと彼女を見てきた俺だからわかる。たぶん、帝人さん自身も気づいてない。本当は抜け出た先なんてどこでもよくて、彼女の生活や行動の根底に臨也がいる、それが彼女の日常であるということ。逆に言えば、それほど普段から一緒にいて、彼女にとっても重要な位置を占めているということだ。
融け合うように静かに、魚が水の中を泳ぐように、当たり前のように傍にいることができるのは、きっと単純に臨也が弟であるという理由だけじゃない。認めたくはないがそれだけの時間と労力を割いて臨也はその場所にいるはずで、それは他の誰も代わりになれはしない臨也だけのものだ。感情のかたちが何であれ、特別だということは不変なんだ。そのことが少しだけ、悔しい。
けれど帝人さんが気づくはずもなく、急に黙ってしまった俺をどうしたのかと覗き込んで心配そうに見上げてくる。もちろん彼女の所為ではないから、なんでもないと誤魔化した。帝人さんはほっとしたようにまた笑う。ちょっと困ったように眉を寄せる、この笑い方が好きだった。
「・・・帝人さんみたいな人が姉貴だったら、俺だって気が気じゃないと思うっスよ」
別に臨也を気にかけるわけではないが、すっと口から出た素直な言葉だった。帝人さんは、一見普通の女子高生に見えて、実はなかなか一筋縄ではいかない。この姉にして、あの弟や妹たちあり、とでもいうのか、その度胸や器の大きさには男の俺のほうが目を瞠る程だ。いや、男だとか女とかは関係ないのかな。特にこの人は自分で思っている以上の数の人間を無意識に動かしてしまうので。近くにいる人間のほうが気が気じゃないだろう。
「たしかに静雄さんは弟って感じじゃないですね」
「えっ」
「どっちかっていうと、おっきな犬…かな?」
ぜつぼうのよあけ
もしこの世に神様なんて得体のしれないモンが存在するとしたら、間違いなくそいつは俺のことが嫌いなんだろう。
ふと、そんなことを考えた。被害妄想だとは思わないし、卑屈になっているのとも違う。客観的に、現実を見たままの感想だ。
人間離れした怪力や身体能力は余計な敵を作り、そいつらの相手をしているうちに今度は喧嘩が強くなった。喧嘩に強くなると絡んでくる奴らの人種も変わってくる。学校でも同じ。面倒事に巻き込まれたくない一般生徒や教師たちは俺と距離を取ってなるべく関わらないようになり、俺の周りには、小さい頃から変わらず俺に接してくる弟と、怖いもの知らずの同級生と、天敵だけが残った。
もともと器用な方ではないし、社交性なんて欠片もない。絡まれるのは面倒くさいけど、だんだんとこの無用の長物である力の使い方も覚えてきた俺は、ほんの一握りの人たちとこの自分の周りの小さな世界で、当たり障りの無い普通の生活が送れればいいと、そう思ってた。
目新しいものにも、慣れればすぐ興味をなくす。人間ってのはそういう生き物だ。だから、ノミ蟲の野郎に半ば強引にその人を紹介された時も、俺はどこかにそんな諦めみたいなものを抱えたまま対面した。
「初めまして、折原帝人です」
深々と丁寧に下げられた頭と、邪気のないきれいな笑顔。物腰は穏やかで、臨也とは似ても似つかないが、ヤツの姉なのだという。ということは上級生か。自分の周囲の人間以外は俺には近寄らないから俺も知ろうともしなかった。まあ、ノミ蟲の親族って時点で、俺が自分から興味を持つ可能性はゼロに近いが。要するに、綺麗な人ではあったが奴の姉だという情報のみでは、第一印象はあまり良くはない。
「あ…、平和島静雄、です」
礼には礼を返すべきだとこちらからも名乗ると、意外にも柔らかな笑顔を返されてどきりとした。つくづく臨也の親族だとは信じがたい。けれどその直後の臨也のあしらい方なんかを見て妙に納得した。人は見かけによらないという言葉を体現したような人だ。
臨也とは、まるで違う。なのにこの存在感は何だ。何もしていなくても人を惹きつけるような雰囲気と、迂闊に手を伸ばせばこちらが怪我をしてしまいそうな危うさを、併せ持っているような。きっと、この笑顔に裏はない。それでも一筋縄ではいかない、そんな厄介さを瞬時に感じ取った。一言で表すなら、空気が同じ。折原の血とはそういうものなのか。
「あ、勘違いしないでよね。シズちゃんに会いたがったのはたしかに姉さんだけど、それは化物じみた怪力に興味があるだけで、まちがってもシズちゃんなんか好きにならないからね」
今までのやりとりを見ていて、臨也がこの姉に執着しているのは明白だった。臨也なりに釘を刺したつもりだったんだろうが、その言葉は一瞬の後に俺の耳を素通りしていく。臨也の姉という認識、実物とのズレ、目の前にいるのはどう見てもただのか細い女で、なぜかそれが無性に俺を苛立たせた。俺を牽制しようとする臨也の耳障りな言葉の所為なのか、彼女自身の所為なのかはわからなかった。この苛立ちが何なのかさえも。
「非日常が好き、か。随分とイイ趣味してんだな。俺は動物園のパンダじゃない。見世物になる気はねぇぜ」
「ええ。動物園のパンダはもっと可愛げがありますよ」
威圧するように見下ろして、わざとぶっきらぼうに言い捨てた。彼女は微動だにせず、臆すことなく俺をまっすぐに見上げて、また悠然と笑った。けれどその言葉には随分と強い芯が垣間見える。言葉の選び方と切り返しの速さはさすが。
臨也のことは相変わらず大嫌いだ。同じ名を持つこの人のこともすぐに信じることはできない。それでも
この人は他の人間とは違う。臨也とも、誰とも。多分そう、心のどこかで直感的に感じてた。
「もう、見世物と客じゃありませんよね。これから宜しくお願いします、静雄さん」
昔から色んな視線を浴びてきた俺だからわかる。ふわりと微笑むその表情は、紛れもなく知り合いに向けられるそれだった。
俺の周りの小さな世界に加わった、一輪の花。
俺と帝人さんの、これが出会いだった。
***
「静雄さん、またこんな所にいたんですか」
「…帝人さん?」
昼休みの屋上は陽射しがあっても風が冷たい。それでなくとも俺が階段を上がるのを見た生徒は寄ってこないし、いつものように貸切状態になっていた。柵に寄りかかって紙パックの牛乳を飲み干すと、壊れかけたドアをゆっくり押し開けて帝人さんが上がってくる。長い黒髪が強く吹いた風に煽られて舞った。
「帝人さんこそ、良く飽きずに来るんスね、こんなとこまで」
「…実はこっそり教室を抜けだしてきたんです。臨也さんに見つかると面倒だから」
「あー…、俺と会ってるなんて言ったら、あいつ怒り狂って、多分暫くひとりで行動させてもらえないっすよ」
「ふふ、そうでしょうね。でも、なんだか新鮮です。臨也さんに秘密をつくる、なんて」
まるでいけないことでもしてるみたい、といたずら好きの子どものように、口許に手を当てて楽しそうに笑う帝人さんを、俺は眩しいものでも眺めるように見下ろした。これだけ聞くと彼女が臨也の目をすり抜けて来た先が俺のところだっていうのは、単純に喜ばしいことのように思う。でもずっと彼女を見てきた俺だからわかる。たぶん、帝人さん自身も気づいてない。本当は抜け出た先なんてどこでもよくて、彼女の生活や行動の根底に臨也がいる、それが彼女の日常であるということ。逆に言えば、それほど普段から一緒にいて、彼女にとっても重要な位置を占めているということだ。
融け合うように静かに、魚が水の中を泳ぐように、当たり前のように傍にいることができるのは、きっと単純に臨也が弟であるという理由だけじゃない。認めたくはないがそれだけの時間と労力を割いて臨也はその場所にいるはずで、それは他の誰も代わりになれはしない臨也だけのものだ。感情のかたちが何であれ、特別だということは不変なんだ。そのことが少しだけ、悔しい。
けれど帝人さんが気づくはずもなく、急に黙ってしまった俺をどうしたのかと覗き込んで心配そうに見上げてくる。もちろん彼女の所為ではないから、なんでもないと誤魔化した。帝人さんはほっとしたようにまた笑う。ちょっと困ったように眉を寄せる、この笑い方が好きだった。
「・・・帝人さんみたいな人が姉貴だったら、俺だって気が気じゃないと思うっスよ」
別に臨也を気にかけるわけではないが、すっと口から出た素直な言葉だった。帝人さんは、一見普通の女子高生に見えて、実はなかなか一筋縄ではいかない。この姉にして、あの弟や妹たちあり、とでもいうのか、その度胸や器の大きさには男の俺のほうが目を瞠る程だ。いや、男だとか女とかは関係ないのかな。特にこの人は自分で思っている以上の数の人間を無意識に動かしてしまうので。近くにいる人間のほうが気が気じゃないだろう。
「たしかに静雄さんは弟って感じじゃないですね」
「えっ」
「どっちかっていうと、おっきな犬…かな?」