ぜつぼうのよあけ
弟ではないという響きに一瞬柄にもなく期待してしまいそうになったが、それは本当に一瞬のことだった。そんな俺を見て帝人さんはまたくすくす笑った。本人はまったく悪気ないんだろうなあ、こういうところも帝人さんらしいけど。帝人さんにかかると俺と臨也の険悪なまでの仲の悪さも、子どもの喧嘩のように見えるのかもしれない。それぐらい、この人は大きい。色んな意味でそれを痛感させられる。
「臨也さんはちょっと過保護すぎるんですよ」
あれは過保護というよりただのシスコンじゃないかと思ったけど、まるで枷が外れたように気持ちよさそうに風を受けながら背伸びをする帝人さんを見て、結局口を閉ざしてしまった。この人の周りにはいつも人がたえない。学内では彼女のクラスメイトの金髪の男と眼鏡の女子がまるで守るように両脇を固めているし、それ以外の時も頻繁に臨也が傍にいる。俺と顔を合わせてしまっても、帝人さんがいるときはあの臨也がおとなしくしているくらいだ。どれだけ大切にしているかは容易に想像できた。
だからこそ、帝人さんにも息が詰まる時があるんじゃないかと思ってしまう。勿論、余計なお世話かもしれないけど、そんなこと考えるのは俺くらいの、少し離れた距離にいる奴くらいだろう。そんな事を考えながら帝人さんの横顔を眺めていると、まるで心の裡を読まれたかのように彼女が突然振り向く。冗談じゃなく、一瞬呼吸が止まった。
「静雄さんは、他の誰とも違いますね。静雄さんといると、なんだかほっとします」
友達では、ない。それは確実。知り合いというのは正しいけれど、間に臨也がいると思うとなんだか複雑な気分になる。俺にとって帝人さんは憧れの存在というのか、いつからか特別な人だと感じてはいるけど、それがどういう感情を含む特別なのかは考えたことがないし、帝人さんが俺をどう見ているのかも知らない。
でも、だからこそこうやって帝人さんが楽に息ができる場所になれるのかと思うと、ほんの少し詰めたいと思っていた距離も、暫くこのままでいいのかなと思って足踏みしてしまう。自分でも、だいそれたこと考えてるって気はしてる。だけどこうして自分から頻繁に会いに来てくれる、その説明がつかないんだ。
「…そんなこと言うの、帝人さんぐらいスよ。帝人さんは変わってます」
視線を逸らして溜息と共に吐き出すと、帝人さんは驚いたようにきょとんと目をまるくして、それからすぐに破顔した。「変わってるのは静雄さんも同じ」なんだと。たしかに自分が人間離れした力を持ってるってのは、ガキの頃から嫌ってほど身に染みてるが、どうも帝人さんが言う「変わってる」はそういう意味じゃないみたいだった。悪い意味じゃないんですよ、と念を押される。そして、さらりと尋ねられた。誰も触れたことがないような、とても根本的なこと。
「静雄さんは、自分のその力が嫌いなんですか?」
「え?」
「私は本当はあなたのような力が欲しかった。別に物理的な力じゃなくてもよかったのかもしれない。でも、何か現実を凌駕するものに憧れていたんです。変わらない日常を非日常に変える存在。あなたのようになりたかった」
瞬間的に頭に血が上るのがわかる。こっちの台詞だ、って思った。『普通の人間』に対して、憧憬を込めて見ていたのは俺の方だ。この力を望んだことなんかない。俺の力なんてものはたぶん何かの罰で、戒めとして嫌々ながら付き合っていかなければならないものだって、どうやったって『普通』にはなれないのだという現実を突きつけられるだけのもので、誰かから望まれるなんてことあるはずがない。この化物じみた力で俺が受けてきた苦しさも、きっと誰にもわからないのに。それなのに。
帝人さんの言葉は不思議とそんな荒んだ心にするりと入ってきて、沁み入るように浸透していく。偽善でも好奇心でもなく、本心なんだと伝わってくるから。俺の気持ちがわかるとかわからないとかじゃなく、本当にただ自分自身が、非日常を望んでいたいんだ。
「静雄さんはまるで疎ましいものみたいに自分の力のことを話すんですね」
責めるような語調ではない。だけどほんのすこし寂しそうな、何故自分じゃなかったのかっていう、失望と羨望。こんな力、やれるもんならやりたい、代われるもんなら代わって欲しいと出かかった言葉を飲み込んだ。彼女は本当の意味で力を欲してるわけじゃない。人から与えられたいわけでもないだろう。
「でも、静雄さんのような人で良かったと思います。その力は、きっと静雄さんだから与えられたんですね」
化物だと言われ続けた俺を普通の人間のように、俺が疎ましがり続けた力を神からの授かりもののように言いながら、帝人さんはいつものように柔らかく微笑んだ。これまでの俺の、この力に関する嫌な思い出を全部ぶっ飛ばすように鮮やかに。
「臨也さんから初めて貴方の話を聞いたとき、その力を思うままに振るってる暴力的な人なのかと思った。私が憧れた非日常を生まれたときから持っていて、王様みたいに当然のようにその力を使うんだろうって。…でも、少し調べてみたら全然ちがう。こうして直接会ってみたらもっと違う」
「帝人さん、俺は」
「初めて会ったときは確かに好奇心でした。だけど、今もこうして貴方に会うのは、貴方が自分の力に苦しんでいたから。貴方が優しい人だと思ったから」
まるで抜身のナイフを、さくりと心臓に差し込まれたのかと思った。その言葉は鋭利な凶器のように鋭く、けれど恐ろしいほど優しく、俺の胸をさした。 流れるように切り込まれる。前置きもなく。なんのガードもしていない懐に、重いボディブローでも食らったような感覚だった。
「臨也さんは貴方のことを厄介だっていう。でも静雄さんの厄介さってきっと、その常軌を逸した力でも、喧嘩の強さでもない。その不器用な優しさだと思うんです」
人間の強さだとか大きさは、見た目や性格や、ましてや喧嘩の強さなんかでは到底測れるものじゃない。俺はこの時、知ったんだ。
恋愛感情っていうものが俺はよくわからない。でも、目の前でやさしく笑う、この人に対する苦しいほどの心臓の痛みが、恋じゃないならいったい何なんだ。傷つくことや人と違うと気付かされることに怯えて、頑なに人を遠ざけていた俺の狭い世界に自分からあっさり飛び込んできて、光で満たしてくれる、この温かさが、好きだという感情じゃないなら何なんだろう。
色んなことを諦めてた。それでいいと割りきってしまえば、辛くなることもないから。でもそれこそが異常なんだと、我慢する必要なんかないと教えてくれたこの人を、
追いかけたいと、見守っていたいと、初めて我慢することなく思えたのに。
『…帝人さんて、聖母か女神みてぇだな』
彼女の笑顔にノイズがかかり、ゆっくりと視界から消える。手を伸ばしても届くことはなく、掴んだ拳は空をきった。あの日の思い出はいつもここで途切れる。
あの時、俺の言葉を帝人さんは冗談だと思って、大げさだと声を上げて笑ったけど、俺には本当にアンタが女神に見えたんだ。
救ってくれたのに、 どうして
どうして、俺たちの前からいなくなっちまったんだ。