海風
海風
(1)
夜明け前の紺色の空にはまだ星の光が残っている。夏の海でもさすがにこの時間では誰もいない。
――いつもはいないんだが。
道路から海岸への階段をゆっくり降りながら、仙道はその人影を見つめた。
砂浜に自転車を倒して、その横にパーカを着て座り込んでいる。
まさか昨日の夜からずっといるんじゃないよな。
まあ、でも感傷的になって海にくるやつなんて腐るほどいる。
こいつもその一人だろう。失恋でもしたか。
じっと動かないその影の後ろを通りすぎて、仙道はランニングをはじめた。暗い中を白い波を目印に走る。海岸通りを走る車のテールランプが次々と仙道を追い越していく。
真夏でも海岸はいつも風があって涼しい。東京の夏の夜の強暴な暑さ。あの街に帰る日がくるのだと思うとぞっとする。とはいっても夏の間はここも昼間は人ばかりで、好きじゃない。
少し前、眠れなくて思い立ってきてみたこの時間の海が気に入った。走っている間にいつのまにか明けていく空の色が、暗い闇から灰色に変わっていく海の色が好きになった。そして太陽が熱く、海が青くなる前に自転車を漕ぎ、家に帰る。――それからどうしても寝てしまうのはまずいけれど。
腰越のあたりまできたところで引き返すことにした。そろそろ空が白みはじめてきた。
明るくなってきたせいで、遠目でもさっきの場所にまだそいつがいるのがわかった。立ち上がってじっと海をみつめている。やっぱり男だったな。ちらっとその横顔を見て通りすぎた後に、あれっ、と思った。
階段ののぼり口で振り返りながら立ち止まっていると、自転車を持ち上げてこちらを見上げた眼が仙道と合った。
「藤真さん」
「?」
いぶかしげに細められる瞳に、ああ、と仙道は思い立った。
「あの、仙道です。陵南の」
言いながら額にかかっている前髪を上げる。立ちあがっていない髪の時すぐに認識されないのには慣れていた。
藤真の目が大きく見開かれ、そして次の瞬間の表情に仙道は目をみはった。
強い驚きの次にきたのは激しい怒り。薄暗い中でも藤真の頬がさっと赤く染まったのが見てとれた。
「仙道――」
低く、呟くように言いかけて、藤真はそのまま言葉をなくす。
激情に揺らめいた瞳で仙道を睨みつける。
しかし、数瞬の後まるでシャッターを下ろしたようにその目から光が消える。さっきの顔はウソのように。
見上げていた顔を今度は俯かせ、仙道の脇を通りすぎようとする。
仙道は浜を少しずつ、藤真の方へ戻ってゆく。
「藤真さん、俺のうちすぐそこなんですけど、コーヒーでも飲んでいきません?」
もう、藤真はまったく反応しない。
自転車のハンドルに手をかけて、のぞきこむように仙道は言った。
「来てくれないと、翔陽の藤真さんが海で泣いてた、っていいふらしちゃいますよ」
立ち止まった藤真が突然自転車を突き離すように押した。
「うわっ」
仙道が慌てて自転車を押さえてる間に、藤真のこぶしが飛んできた。左ストレート。そういや、左利きだったな、と思いついたのはもう殴られた後だった。手に物を持っているとどうしても反応が遅れる。殴られるのがわかっててよけられないなんて間抜けなことしたのは初めてだ。
「いてて、藤真さん、卑怯ですよ〜」
軽く身構えていた藤真は殴られっぱなしでへらへらしてる仙道を見て、ちょっと目を丸くした。
「離せよ」
再び自転車を抱えると、目を伏せてそう言った。
仙道は素直に手を離すとちょっと脇にどいた。藤真が自転車のフレームをつかんで持ち上げたところを狙って、仙道は藤真の顔をぐい、と掴み素早くキスをする。
「お返し」
手を離してにっと笑うと仙道は言った。
濡れた唇をぬぐいもせずに、藤真は少し放心した顔を見せた。
何故、俺はこの人に絡んでるんだろう。藤真の薄い色の瞳を見つめながら思う。
知り合いを見つけたからっていつも声をかける訳ではない。別に、藤真のファンでもなんでもないし。第一、コートで見たのとはまるで別人だ。
――だからなのだろうか?
ガシャンと音をたてて、こんどこそ自転車が倒れた。
(2)
――おかしい。
挑発は確かにした。でもまさかのってくるとは思っていなかった。
こんな所で他校の生徒とケンカなんてきちがい沙汰だ。まして藤真はキャプテンで、監督の代行もしている。自分を律することにかけては筋金入りだろうに。
藤真の容赦ないパンチをかろうじてよけながら、仙道は考える。
変なのは俺も同じ。なんだって早朝の海岸で砂まみれになって転げまわらなきゃならない?しかもこっちは一切手を出さないで。さっきからいかげん何発もくらっている。自分はいったい何をしたいのだろうと思いながら、狙いすましてタックルをかける。
砂浜にしりもちをついて転んだ藤真が仙道をにらむ。
その子供のようにストレートな怒りの表情。
こんな風に、感情を前面に出す人じゃないだろう。
足を捕まえようとしたところを、振り向きざまに蹴られた。――そしてブラック・アウト。
頬に落ちる水滴を感じる。
涙?
誰の?
泣かないで。
「泣かないで……」
手を伸ばす。
「泣いてない」
頭上から声がする。
まだ次々と水が降ってくる。唇に触れた。塩辛い。海水だ。
「いてっ」
目に入った。
あわてて身を起こす。頭がくらくらした。
昇ってきた陽を背に、藤真が立っていた。
頭上で振っている手からまだ海水がぱらぱら落ちてくる。
「見捨てないでくれたんだ」
頭をふりながら立ちあがった仙道を見て藤真はさっさと歩き出した。その藤真の背中に声をかける。
「藤真さん」
今度はもう少し大きな声で呼びかける。振り返った顔にほんの少し笑みがうかんでいるように見えた。
「藤真さん、家どこです?」
さっきとは違う、真面目な声で仙道は言う。
「そんなカッコで帰ったらうちの人が心配しますよ。俺のとこでシャワー使っていってください」
藤真はそういわれて、改めて自分の様子を見る。頭を振るとばらばらと砂が落ちた。
「……お前の家の人だって驚くのはいっしょだろ」
「オレ、1人だから」
「……ああ、お前東京からのスカウト組だったな」
すぐに敵チームのデータが出てくるあたり、やはり『監督』だな、と思いながらもうひと押ししてみる。
「だから、迷惑じゃないです。ほんとに。自転車ですぐのところですから。まだ時間大丈夫ですよね?」
まだ時刻は5時を少しまわったくらいだ。
「あ、それで家はどこなんでしたっけ?」
少し、ためらってから藤真が答える。
「横浜」
「え?横浜」
そりゃちょっと遠いかも、とかチャリで来れる距離か?とか考えた。
「……横浜っていっても大船からすぐのところだから」
「あ、そうなんですか、俺あんまり出歩かないから良く知らなくて。えーと、じゃ急いで俺ン家行って戻ってからでも学校間に合いますよね」
即答で断らない藤真をみて、仙道はたたみかける。
「ちょっとヤリすぎたな、と思うんなら寄っていってください」
(1)
夜明け前の紺色の空にはまだ星の光が残っている。夏の海でもさすがにこの時間では誰もいない。
――いつもはいないんだが。
道路から海岸への階段をゆっくり降りながら、仙道はその人影を見つめた。
砂浜に自転車を倒して、その横にパーカを着て座り込んでいる。
まさか昨日の夜からずっといるんじゃないよな。
まあ、でも感傷的になって海にくるやつなんて腐るほどいる。
こいつもその一人だろう。失恋でもしたか。
じっと動かないその影の後ろを通りすぎて、仙道はランニングをはじめた。暗い中を白い波を目印に走る。海岸通りを走る車のテールランプが次々と仙道を追い越していく。
真夏でも海岸はいつも風があって涼しい。東京の夏の夜の強暴な暑さ。あの街に帰る日がくるのだと思うとぞっとする。とはいっても夏の間はここも昼間は人ばかりで、好きじゃない。
少し前、眠れなくて思い立ってきてみたこの時間の海が気に入った。走っている間にいつのまにか明けていく空の色が、暗い闇から灰色に変わっていく海の色が好きになった。そして太陽が熱く、海が青くなる前に自転車を漕ぎ、家に帰る。――それからどうしても寝てしまうのはまずいけれど。
腰越のあたりまできたところで引き返すことにした。そろそろ空が白みはじめてきた。
明るくなってきたせいで、遠目でもさっきの場所にまだそいつがいるのがわかった。立ち上がってじっと海をみつめている。やっぱり男だったな。ちらっとその横顔を見て通りすぎた後に、あれっ、と思った。
階段ののぼり口で振り返りながら立ち止まっていると、自転車を持ち上げてこちらを見上げた眼が仙道と合った。
「藤真さん」
「?」
いぶかしげに細められる瞳に、ああ、と仙道は思い立った。
「あの、仙道です。陵南の」
言いながら額にかかっている前髪を上げる。立ちあがっていない髪の時すぐに認識されないのには慣れていた。
藤真の目が大きく見開かれ、そして次の瞬間の表情に仙道は目をみはった。
強い驚きの次にきたのは激しい怒り。薄暗い中でも藤真の頬がさっと赤く染まったのが見てとれた。
「仙道――」
低く、呟くように言いかけて、藤真はそのまま言葉をなくす。
激情に揺らめいた瞳で仙道を睨みつける。
しかし、数瞬の後まるでシャッターを下ろしたようにその目から光が消える。さっきの顔はウソのように。
見上げていた顔を今度は俯かせ、仙道の脇を通りすぎようとする。
仙道は浜を少しずつ、藤真の方へ戻ってゆく。
「藤真さん、俺のうちすぐそこなんですけど、コーヒーでも飲んでいきません?」
もう、藤真はまったく反応しない。
自転車のハンドルに手をかけて、のぞきこむように仙道は言った。
「来てくれないと、翔陽の藤真さんが海で泣いてた、っていいふらしちゃいますよ」
立ち止まった藤真が突然自転車を突き離すように押した。
「うわっ」
仙道が慌てて自転車を押さえてる間に、藤真のこぶしが飛んできた。左ストレート。そういや、左利きだったな、と思いついたのはもう殴られた後だった。手に物を持っているとどうしても反応が遅れる。殴られるのがわかっててよけられないなんて間抜けなことしたのは初めてだ。
「いてて、藤真さん、卑怯ですよ〜」
軽く身構えていた藤真は殴られっぱなしでへらへらしてる仙道を見て、ちょっと目を丸くした。
「離せよ」
再び自転車を抱えると、目を伏せてそう言った。
仙道は素直に手を離すとちょっと脇にどいた。藤真が自転車のフレームをつかんで持ち上げたところを狙って、仙道は藤真の顔をぐい、と掴み素早くキスをする。
「お返し」
手を離してにっと笑うと仙道は言った。
濡れた唇をぬぐいもせずに、藤真は少し放心した顔を見せた。
何故、俺はこの人に絡んでるんだろう。藤真の薄い色の瞳を見つめながら思う。
知り合いを見つけたからっていつも声をかける訳ではない。別に、藤真のファンでもなんでもないし。第一、コートで見たのとはまるで別人だ。
――だからなのだろうか?
ガシャンと音をたてて、こんどこそ自転車が倒れた。
(2)
――おかしい。
挑発は確かにした。でもまさかのってくるとは思っていなかった。
こんな所で他校の生徒とケンカなんてきちがい沙汰だ。まして藤真はキャプテンで、監督の代行もしている。自分を律することにかけては筋金入りだろうに。
藤真の容赦ないパンチをかろうじてよけながら、仙道は考える。
変なのは俺も同じ。なんだって早朝の海岸で砂まみれになって転げまわらなきゃならない?しかもこっちは一切手を出さないで。さっきからいかげん何発もくらっている。自分はいったい何をしたいのだろうと思いながら、狙いすましてタックルをかける。
砂浜にしりもちをついて転んだ藤真が仙道をにらむ。
その子供のようにストレートな怒りの表情。
こんな風に、感情を前面に出す人じゃないだろう。
足を捕まえようとしたところを、振り向きざまに蹴られた。――そしてブラック・アウト。
頬に落ちる水滴を感じる。
涙?
誰の?
泣かないで。
「泣かないで……」
手を伸ばす。
「泣いてない」
頭上から声がする。
まだ次々と水が降ってくる。唇に触れた。塩辛い。海水だ。
「いてっ」
目に入った。
あわてて身を起こす。頭がくらくらした。
昇ってきた陽を背に、藤真が立っていた。
頭上で振っている手からまだ海水がぱらぱら落ちてくる。
「見捨てないでくれたんだ」
頭をふりながら立ちあがった仙道を見て藤真はさっさと歩き出した。その藤真の背中に声をかける。
「藤真さん」
今度はもう少し大きな声で呼びかける。振り返った顔にほんの少し笑みがうかんでいるように見えた。
「藤真さん、家どこです?」
さっきとは違う、真面目な声で仙道は言う。
「そんなカッコで帰ったらうちの人が心配しますよ。俺のとこでシャワー使っていってください」
藤真はそういわれて、改めて自分の様子を見る。頭を振るとばらばらと砂が落ちた。
「……お前の家の人だって驚くのはいっしょだろ」
「オレ、1人だから」
「……ああ、お前東京からのスカウト組だったな」
すぐに敵チームのデータが出てくるあたり、やはり『監督』だな、と思いながらもうひと押ししてみる。
「だから、迷惑じゃないです。ほんとに。自転車ですぐのところですから。まだ時間大丈夫ですよね?」
まだ時刻は5時を少しまわったくらいだ。
「あ、それで家はどこなんでしたっけ?」
少し、ためらってから藤真が答える。
「横浜」
「え?横浜」
そりゃちょっと遠いかも、とかチャリで来れる距離か?とか考えた。
「……横浜っていっても大船からすぐのところだから」
「あ、そうなんですか、俺あんまり出歩かないから良く知らなくて。えーと、じゃ急いで俺ン家行って戻ってからでも学校間に合いますよね」
即答で断らない藤真をみて、仙道はたたみかける。
「ちょっとヤリすぎたな、と思うんなら寄っていってください」